ついにラストワン!?は舞台。
次はラストにふさわしい大物だ。トリを飾るのは漁村の歌舞伎舞台である。
花道も回り舞台も奈落もせり上げも出語りもある、本格的なもの。
滋賀県でいえばオペラもバレエも上演できる「琵琶湖ホール」のようなものだ。
実はここにくる前に、地下にもぐって「奈落」を見学してきたのだ。
通路はせまいが、韓国の方と同行した。
入れるのはここまで。
でも案外この先は広い。
ほらね!
というわけで、外の段々を駆け上がって舞台にやってきたのだ。上演されないときの花道には、屋根がかかって大切に保存されている。
こちらが観客席。ローマのコロシウムみたいな野外劇場。
村の歌舞伎だからといって、甘く見てはいけませんよ。
朝ドラ「ひよっこ」の奥茨城村で青年団が村のイベントを仕切っていたように、こちらも「若者組」が舞台の設立と運営を担当していた。トップにも、堂々たる「若」の飾り瓦が。
もちろん丸瓦も「若」の文字入り。
さて、舞台の中はといえば、これがぱっと見ただけでも大仕掛け! 時代を考慮すれば『劇団四季』の舞台にひけをとらない(かも)
頭上にもさまざまな装置があるようなのだが、残念、すでに閉園30分前の放送がながれた後だ。説明書きはスルーしてしまった。
客席後方から舞台を望んで、名残惜しいが、さようなら。
入ったのは正門なので、一旦西門から出て正門に戻らなくちゃ。コインロッカーに荷物を預けてあるんだもん。
伊藤家から岩澤家へダッシュ。
お堂から伊藤家にむかう。
夏はここでスイカを食べたいような縁側がある。
なんと、伊藤家は「民家園」誕生のきっかけとなった民家だった! 川崎市の民家で、最初に国の重要文化財になったのだ。
もちろん地元・川崎の民家。
ブレていますけど神棚のある「でい」。しめ縄?が独特で御簾のよう。
天井はなく梁が渡り、吹き抜けになっている。
これが台所の「すわり流し」↓ 座って流し場の作業をするそうだ。無双窓は冬は吹きさらしで寒そうだけど、風通しと採光はよさそう。
囲炉裏があるので居間らしい。ムシロが敷きつめられている。
裏側は質素! というか貧相な田舎家然としている。
でも代々からの豪農で、生活スタイルも、いちはやく新しいライフスタイルを取り入れたらしい。
村で一番に簡易水道をひいたり、テーブルと椅子を導入したり、オート三輪を購入したり。旧態依然を守るのではなく、いいものは取り入れる心意気があったのだ。
でもやはり長時間の重労働はほかと同じで、骨休めはボタモチをつくって食べること!ボタモチつくるのは、労働ではないのね。娯楽に組み入れられるんだ。
次は、もう駆け足で岩澤家へ。岩澤家のひとたちは、山の斜面で焼き畑をし、炭焼きや林業に従事していた。
ダッシュ!
だだっと中をみて、
ババッと写真を撮って、
次に急げや、急げ!
武蔵の国はイチハツがお好き?
またもや関東に戻り、今回はなんと地元、川崎市多摩地区の登戸だ。清宮家住宅。
民家園で一番古い民家だけど、この家の特徴はすぐわかる。
そうです、屋根です!
キャッチコピーも「棟に花が咲く民家園最古の家」だ。
さっきも見た「芝棟」だけど、ここでは花は「イチハツ」。 なにがなんでもイチハツ。
イチハツの語源は、アヤメ科の中で一番早く咲くという意味らしいが、実際はシャガよりも遅れるそうだ。昔は、大風を防ぐと信じられていたため、藁屋根に植えられたという。そういういわれがあったのか。
年中行事の展示も、中にあるみたい。でも「マンガアライ」って??
奥に横置きされているのが「マンガ」。田植えの道具である「まぐわ」のこと。この日は村人もお休み、道具たちはきれいに洗われ、蕎麦とお神酒をお供えされる。田植えの無事終了を感謝し、秋の豊作祈願も兼ねている。
素朴な信仰。謙虚だった村人たち。自然とともにある生活。
その近くにあったこれは?
これも民家園の貴重な展示物、薪小屋だ。
横から見たら、本当に掘建て小屋だ。家畜小屋にも見える。
そのむこうに見える不思議なお社は、なんだろう?
どうやら、お蚕さまの神様を祭った祠らしい。
へんなカタチの屋根だなあ?
でました、またもや芝棟! そしてイチハツ!
葉っぱは建材だ。
りっぱな彫り物があるらしいけれど、側面にあるのか判明しなかった。この辺りでは、マジ駆け足でみていたから、説明板もちゃかちゃかと読み飛ばしていたはず。
そろそろ足がきつくなって来たというのに、この上り階段! でもゆっくり上ってはいられない。まわりはほぼ外国の方ばかりだ。
北村家はお墨付き、菅原家は東北の民家
次は国の指定重要文化財。日本で最も重要な民家のひとつだ。それは建築年代が特定できるから。もちろん建築的にも優れたものであるのは、いうまでもない。
北村家の建築年は、17世紀後半とか18世紀中頃などアバウトな表記ではない。
1687だ!!
どうだ、まいったか! というくらい、このことは特筆されることらしい。柱の先端に墨で書かれていたのだ。建てたのは理兵衛という大工の棟梁と、その手下たち。この記録を「墨書」という。
土壁だけでなく、竹も使われている。向こうには濡れ縁も。
田畑はたくさんあったにもかかわらず、朝4時起きで夜遅くまで、家族みんなが働き詰めだったそうだ。土地が稲作には適さなかったので、土地があくとかわりばんこに、様々な農作物を作っていたのだ。
たとえば葉タバコ、たとえばビール麦。それでも暮らし向きが上向くのは、昭和2年生まれの一平さんが会社勤めを始めて、兼業農家になってからだとか。
次の民家はこれ↓
今回はトンネルすらもくぐっていないのに、またも空間を超えて東北は山形に来てしまった。鶴岡市にあった民家だ。
やはり農家(肝煎=庄屋や名主のようなもの)だ。
中には農家の道具がずらり。上には二層三層があり、そこで養蚕を行なっていた。そのために屋根に高窓をもうけて採光を取る、特徴的な作りになっている。
この高窓を「ハッポウ」という。移築されたからか、ハッポウは山側に(汗)
豪雪地帯なので、冬場には「雪囲い」をしたそうだ。
茨城の民家
大急ぎで見なくちゃならないのに、ついつい足を止めてじっくり見てしまう。でもまだこのときには、上を見る余裕があったようだ。
ふたたび家の中に雨樋のある民家。ちょっと東北の曲がり家に似ているカタチだ。
そうか、江戸時代後期には茨城県や栃木県にも曲家(まがりや)があったんだ。その影響を受けた分棟型の曲家もどき。
茅葺きに土壁、竹のはまった大きめの窓がカッコいい。うっとり。
もちろん住んでみたら寒いだろうけどね。
「作り手」をいやが応にも感じさせてくれるんだよなあ。いいなあ。
厩の地面には傾斜をつけて、オシッコを一カ所にあつめ肥料にしたり、土間を客席にして部屋の間仕切りにスクリーンを張って映画を上映したり、興味深い暮らしのいろいろ。
しかし雨樋は、けっこう溢れることがあったんだ。茅葺きって雨樋にゴミがたまりやすかったんだ。しかし夜中に樋のごみ取りをするのは辛いなあ。下の写真が、家の中にある2軒分の雨樋。
朝ドラ「ひよっこ」みたいに農業だけではやっていけないので、炭焼きや薪の出荷もしていた。
江戸時代には紙漉も。養蚕は短期間でギブアップして、飼育用のカゴを利用して、乾燥芋の製造をしていたらしい。一日中働き詰めの、キビシい生活だったんだなあ。
こちらの梁も、なかなかにユニーク。
土間に落ちる木漏れ日。
麦や蕎麦、落花生やサツマイモの栽培もしていたそうだから、蕎麦粉や小麦粉もひいていたのだろう。
梁、縦横無尽!
日常生活をいとなむ「ヒロマ」。奥に畳敷きの「ザシキ」が見える。
甲州の民家はイワヒバ・ハウス
次は山梨県甲州市の農家だ。再び一般的な民家に戻る。・・・ん? 一般的かな? すごく軒が低い。この軒の低さは、神戸の古い民家「千年家住宅」みたいだ。
もともと山の斜面に建てられていたので、風を防ぐためにこんな風になったそうだ。
「芝棟と土座のある甲州民家」ってあるけど、芝棟って?
「芝棟」とは、茅葺き屋根の棟に芝土をおいて棟の固めとしたもの。芝土に生い茂る植物が根を張ることで、棟を固定し風雨への抗力を高める棟仕舞の一手法だ。しかし1960年代以降、茅葺き屋根の消失とともに急速に姿を消した。
屋根の頂上にはイワヒバを植えてあるらしい。土を入れて屋根が飛ばされないよう、土を入れて重みを持たせてあるのだ。
なぜイワヒバなんだろう? と気になって調べてみた。
かなり不思議な植物で、分類は苔類らしいけれど、水はけさえよければなかなか長寿を保つそうだ。冬眠したり、乾燥しても仮死状態にはなるけど枯れることはないみたい。けっこう古くから(文化文政の頃らしい)日本人に愛されてきた古典園芸植物だと、下のHPに書いてあった↓
現在は、雑草や、もしかすれば雑木などもはえているのかも。草取りをするには大変すぎる場所だし、しょうがないか。っていうか、むしろ根を張ってくれるから草はウェルカムなのかも。
こちらの花は植えられたもの?? 青空にピンクがやさしい。
遠目で見ると雑草なんだけどね。
反対側に回ると、屋根全体が苔むしている。もふもふの緑の屋根だ。棟には草どころか樹木が!! いいのか? 大丈夫なのか?
裕福な広瀬家ではあったけど、以外にも質素な暮らしぶり。
中は土壁で籠や「しょいこ」などがある。本業は農家だけど、農閑期には荷物の運搬業をされていたらしいので、これらは大事な商売道具なのだ。
まるで土蔵のように、あちこちに格子の入った窓がある。かろうじて採光をとっている。別に板で仕切ったりしたとは思うけど、冬は寒かったろう。
天井はすだれのようなもので覆われている。
ものすごく味のある空間だ。斜めの木が素敵。
このときには曇っていたけど、こんなに外が明るい。厚い土壁にちいさな格子窓が少ししかないですからね。
素朴で力強い屋根。17世紀の終わり頃には、家はこんなだったんですね。
風が強くても、これだけ軒が低ければ安心感がある。
「芝棟」にすっかり注意を奪われていたけど、「土座(どざ)」という説明もありましたよね。下は「イドコ」と呼ばれるムシロ敷の居間で、このような床を「土座(どざ)」というのだそう。
ムシロの下は地面を付き固め、茅束が敷き詰められているとか。
柱などが土壁で塗り固められた壁面は、かっこいいなあ。
エキゾチック・ジャパン!
漁村の村を離れて山の中の道を歩く。ざざざあという風と木の詩が、激しさを増してきた。聞いたことが無い鳥の声も聞こえる。鬱蒼とした地域に入ってきた。
いつしか両側には石垣が続いている。
山道を歩いていたら、いつのまにか沖縄にきた!?
「石敢當」は南国の魔除けの石碑。南国では台風が激しいので、同じ魔除けでも私の地元のような「勧請縄」なんて繊細なものでは、吹き飛ばされてしまうだろうな。
そしてほどなく目の前に現れたのは、沖永良部島の高倉だ。うわあ、一般的な民家ばかり見てきた眼には、おそろしく斬新な風景だ。となりのソテツも、いきなりの南国情緒をかもしだしている。
これは住居ではなく食料倉庫だけどね。
茅葺きの屋根は、竹材でしっかりとガードされている。
珊瑚礁岩の礎石に立つ円柱は、食べ物をあさろうとする動物を撃退するため、イジュという毒性のある木が用いられている。足の頭部を鉄板巻きにして鼠などがすべって登れないような工夫も。中は穀物などの貯蔵庫として利用し、出入口には一木でつくった梯子をかけた。
床下は、倉下(くらんた)と呼ばれる。この場所は子どもの遊び場でもあったようだ。
さらに道を急ぐと六地蔵!! いつの間にか関東に戻り、山梨県は甲州にいるようだ。一体一体のお地蔵さまの六地蔵はよく見るけれど、道祖神のように一つの石に彫り込まれたのは初めて見た。しかし、これがあるということは・・・。
六地蔵さまって、墓地の入り口にいらっしゃるんだよねえ・・・(汗)