建築と対話
以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。
単発のお仕事が降って湧いたので、わくわくしながら現地に向かう。友達のお手伝いで、ちいさな美術館(というよりギャラリーに近い)の一日管理人(のようなもの)だ。孤独なひとりしごとは、私にうってつけだ。
照明は磨りガラスの天窓や磨りガラスを連ねた廊下などから、自然光のみを利用している。だから閉館時間は明記されず「日没」時だ。ちなみに施設は、かの安藤忠雄作品なのだが、地上からは発見できないような半地中にあるので、見逃されがちだ。よほどの安藤ファンか、よほどプッシュされた人でなければ来る事もないだろう。美術館は無料だが、公園の入場料は払わなければならない。そんなこともあり、安藤ファンが見たら怒り出しかねない打ち捨てられ感だ。
しかし明らかに使い勝手が悪く、管理がむずかしい建築物(わざわざそんな風につくってある)なので、「普通のひと」や「小さな自治体」には手に負えないことも理解できる。
でもひとりでぽつねんと受付に居ると、展示物ではなく建物と対話をせざるをえない。そこは、さすがに名だたる建築家の作品である。とはいえ、展示室は湾曲したひと部屋、あとは磨りガラスの曲線廊下と、廊下のドンツキの休憩所(??)のみ。そこからは(雑)草木が茂る裏手の土手を眺めることができる。
正直、安藤作品に思い入れはないが、「ワタシにふさわしい使い方を」と要求する建物の声を無視するわけにもいかないだろう。私は「普通のひと」なので、画家の山口晃さんのように一枚ウワテはおろか、「ふさわしい」レベルにだって到底無理だけど、何かできないものだろうか? もっとも部外者ではあるし、手出しする立場にはいないので、妄想するだけでも許されたい。
何度も何度も歩いて眺めてみる。宿題用に写真も撮ってみる。数日は、のめり込むつもり。