さわやかな力業
『カーネーション』は、あまりにも重大なことを短時間でさらっと描いてしまうので、視聴者の想像力と行間を読む力が非常に試される。
だから、うっかりウェブ上の「みんなの感想」なんかで不平不満をつぶやいたりすると、知らないうちに自分のドラマ視聴力不足を暴露しかねない。恐ろしいドラマだ。私には、とてもそんな場所へは足を踏み入れる勇気はない。せいぜいブログでアツく語るのが関の山である。
でも、かなり参考になるので、ロムだけはたまにする。
今日も、
糸子の娘たちの叱り方が、「おじいちゃんにつけてもろた優子という名は、優しい子、直子てゆうのは素直な子なんやから」とどやしつけつつ、決して「お姉ちゃんやから」「おねえちゃんやのに」って云わないのが素晴らしい!という感想があり、ああ、なるほどなあ・・・と感心した。そんなふうな視点がゼンゼン欠けていたな、私には。
むしろそのあとの「聡子、かしこないで〜!」といった直子の表情と、こんな時に限ってのみごとな姉妹ユニゾンで「あほやで〜!!」というのに感じ入っていた始末だ。その後の組合長(近藤正臣)、北村(ほっしゃん。)、糸子(尾野真千子)のスリーショットにもぞんぶんに楽しませてもらった。
重い話、感動話の後は、コミカルに繋げるという、私の好きな流れだった。
で、月曜日(きのう)までの復習になるけど、重くていい話が、あまりにスピーディーにまとまったので「ええっ!?」という声をよく耳にする。もちろんキチンと表現されていたのだけど、繊細な部分なので、キャッチしづらかったというのもわかる話だ。
なぜ、安岡玉枝さんは、奈津を救いたいと思ったのか。そしてあんなに打ちひしがれていたのに、突然元の明るいおばちゃんに戻れたのか。あの激変は不自然過ぎないか?
松坂のおばあちゃんが云っていた「辛気くさい」より、もっと始末に悪いのは「不幸に溺れること」と「悪口(呪い©内田樹先生)」だ。これらは、どんどん自分を蝕んでいく。それはもう、他人が救うことができない領域なので、自分の足でターンするしか助かる方法が無い。
ターンの方法は、私が仄聞ながらも見たり読んだりしたところでは、なぜか「他人を救うこと、そして人とつながること(孤独でなくなること)」だ。他人を救うことが、すなわち奇跡的に自分を救うことになる。すごく陳腐だけど、言葉にするなら、先週の花言葉「愛する力」に他ならない。安岡のおばちゃんは、自分の中にある枯れ果てたと思い込んでいた井戸に、ふたたび水を湧かせたのだ。
という、くどくて、しょうもない説明を、見事なショートカットで端的に、でも繊細に感動的に見せてくれたのが玉枝、糸子、奈津のスリーショットなのだと思う。
なんだか、読者の皆様にはいわずもがなのことを書いたような気も。すみません、私の覚え書きですので、どうぞお許しを。
『カーネーション』の、こまかいところも抜かりない繊細な力業に、毎回脱帽。