修行僧、あるいはガキ
『垂直の記憶』は何の期待も無く、課題本という義務感だけで読み始めた。ところがこれが、思わぬホームランに。
「のぼる」ためだけに生きる人、山野井泰史さん(と妻、妙子さん含む)の7編の記録。ソロクライマーで、ほぼ単独で酸素ボンベなしに、超難易度の高い山や絶壁に登ことが唯一の欲で生き甲斐のひと。
なのに2002年、ギャチュン・カン北壁の登攀後、嵐と雪崩に巻き込まれるも奇跡の生還を果たす。そのとき重度の凍傷で手足の指10本を切断する重傷を負ったため、再起不能かと思われたが、できることから再び徐々に登り始める。
淡々と書かれた山や絶壁に登る記録なのに、私はクライミングにもクライマーにも山登りにもトレッキングにも全く興味がない、呆れた読者だ。
それでも子どもの頃は山の上がり口に住み、裏山が遊び場だったので山育ちといえなくもない。ティーンの頃は、たぶん常軌を少しだけ逸しているほど自然が好きで、山(20分で山頂に着く裏山に限る)や田んぼや河原に入り浸っていた。その頃の自然はおしなべておそろしくキレイだったのだ。毎日見てるのに、いちいち感動していた(笑)
というような、自分の過去のちょっと恥ずかしいくらいの自然愛を思い出してしまうくらい、山野井さんも自然ぞっこんな人なのだ。そこで共感。
それから山野井さんの淡々とした文章は、もちろん冷たいのではなく個として確立しているがゆえ。わがままだけど、憎めないヤツだ。なんていうか悪い意味のコダワリがない。というか山でこだわっていたら、生還できないだろうし。そんなところが、村上春樹の小説の主人公たちのテイストに、なんだか似ている気がする。
なにがなんでも山に崖に雪と氷の世界にいきたい!という狂おしいほどの思いは、もう「業」だろう。「業」なので、もう善悪とかは関係ない。彼の人生そのものだから。彼の人生は、彼が納得出来るように生きるしかない。人の役に立つとか、世の中のためになる、とかいう理由付けを超えている。
彼にとって山に登ることは、なにがしかの修行でもあるのかも。大金を集め(そして消費し)、寒さを乗り越え、ハードワークをこなし、凍傷になり、空腹に耐え、薄い空気を呼吸し、睡眠を削る。それを求めてするということ自体、私には理解不能だけど否定はしない。
彼のブログ『山野井通信』を読んでいると、またちょっと違ったお茶目で悪戯少年みたいな面が垣間見えて面白い。ブログのプロフィールフォトで彼はやっぱりガキの目をしている。次になにをしでかすんだろう、こいつは! と思わせる目なのだ。きっとまた、なにかやらかしてくれるんだろうな、山野井さん。