以前の「紙魚子の小部屋 パート2」はこちらhttp://blog.ap.teacup.com/tanukitei/から、 その前の「紙魚子の小部屋」はこちらhttp://ivory.ap.teacup.com/tanukitei/から。

紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

大原美術館にて

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 蔦の絡まるかわいい入口から敷地内に入ると、向こうに若い人たちの長蛇の列!!

 えっ、大原美術館って、いま、そんなに人気だっけ? それとも地元学生の夏休みの宿題になっている??

 と、一瞬パニック。

 でも実は私も密かに参加したいと思っていた井上涼さんのトークイベントがこの日の夕方に開催されるのだが、それが美術館入場券をお持ちの方、先着100名さままでが参加できるのだ。井上涼ファンが1時間以上前から列を作っていたのだった。

 すでに50人ほど並んでいたので、私が美術館出る頃には定員に達しているんだろうな、と早々に諦める。(実際、美術館を出た時には予想以上にビックリな長蛇の列だった。しかも、ほぼ若者・汗)

 ちなみに私は井上涼さんの存在を、 世界の「びじゅつ」を紹介する番組「びじゅチューン!」(NHK Eテレ)の、作詞、作曲、アニメ、歌のすべてをこなしていることで知った次第。。

 (以下の大原美術館の写真は、閉館後に撮ったので、門が閉まっています)

 この蔦の這わせ方は、なかなかいいですよね。

 大原孫三郎って、まれにみるセンスの良い金持ちだったみたい。

 そもそも大原美術館は、実業家・大原孫三郎と画家の児島虎次郎の出会いから始まっているのだ。

 大原家はこの地でも屈指の地主であり、孫三郎の父孝四郎は、1887(明治20)年に倉敷紡績を立ち上げた実業家だった。

 若い頃は放蕩者だった孫三郎だったが、「広く社会に意義あることを」と会社の利益を還元すべく、様々な社会事業にも取り組むようになる。

 一方、児島虎次郎は、1902(明治35)年、東京美術学校西洋画科へ入学することとなり、孫三郎が立ち上げた大原奨学会からの支援を得るために大原家を訪ねる。虎次郎は大原孫三郎に見込まれ、奨学生になることができた。以来一歳違いの二人は、画家とパトロンという間柄を越え、生涯の親友となる。

 その後、虎次郎は、優秀な成績により飛び級し、二年で美術学校を卒業。更に研究科(大学院)に学び、東京府勧業博覧会の美術展で 《なさけの庭》が一等賞に。孫三郎のすすめで、虎次郎は海外に留学し、さまざまな作品に出会い、孫三郎に美術作品の収集活動を願い出る。

 最初は躊躇していた孫三郎も、意を決してこれを承諾。虎次郎が買い付けた作品を携えて帰国したその翌月、倉敷市内の小学校を会場に、作品を公開することに。すると、倉敷駅から会場まで長蛇の列ができ、全国から多くの観客が押し寄せた。この様子を見た孫三郎は作品収集の意義を確信する。

 その後、作品収集のために、虎次郎を三度目のヨーロッパへ旅立たせ、その際エル・グレコ《受胎告知》、ゴーギャン《かぐわしき大地》、セガンティーニ《アルプスの真昼》などの美術館のメインとなる作品たちが収集されることになった。

 しかし、残念なことに虎次郎は、1929(昭和4)年、47歳という若さで亡くなってしまった。

 この早すぎる死を悼んだ孫三郎は、虎次郎が収集した作品、そして虎次郎が画家として描いた作品を公開するために、美術館建設を決意する。 日本全体が不況にあえぎ、自身が社長を務める倉敷紡績の経営も順調でなかった中で、1930(昭和5)年に大原美術館が開館した。

 それは、虎次郎との友情を記念するものであり、また「広く社会に意義あること」つまりは「今を生きる人々にとって意義あること」を願うものだったのだ。

 この2人の友情については、井上涼さんの「びじゅチューン」のアニメ、「とらとらまごまご」で垣間みることができる。私たちも美術館2階の奥の小部屋で(正確には小部屋に入りきれなかったので)、外から「とらとらまごまご」のアニメを見る事ができた。