京都大学 花山天文台は初公開。
昭和4年、日本で2番目に設立された大学天文台。
施設建造物や望遠鏡に博物的価値がありながら、現在も最新天文学の研究の場として観測が続けられている。
天文台は、山の中にある灯台みたい。この写真ではわかりづらいけど、白亜の建物だ。
三角点もある。
本館に入るときにスリッパに履き替えるのだが、ガイドさんから「山の中ですので、スリッパの中にカメムシやムカデがいないか確認のうえ、お願いします」との注意があり、ちょっとビビる。幸いスリッパは「空室」だったが、履物入れのビニール袋をいただくとき、オレンジの甲虫に遭遇してしまった(汗)
まずは室外に出て、ドームのまわりのバルコニー?にて、展望。
外観を見たときから感じていたけど、やっぱり天文台というよりは、山の中の灯台みたいだ。光を放つのではなく、天体の光を求める灯台。ロマンチック。
山の上までずいぶんバスであがったから、なかなかの高さ。
直径9mのドームがある「本館」には、日野原先生と同じくらいの年齢でいまなお現役、国内3番目の大きさの45cmの屈折望遠鏡がある。
ドームは一部開くのみ。でもそれで充分。
望遠鏡を動かす「しくみ」は、なんと「おもり」。電気を一切使わないエコな施設なのだ。解説してくださった担当者の方いはく、「停電のときにも動かせます!」
この日は中学生たちが研修に来ていた。子どもたちに広く開かれた施設なのだ。「ここに来てくれた子どものうち何人かが天体に興味を持ってくれて、偉大な研究をなしえるかもしれないと考えると、うれしいじゃありませんか!」。これは創立当初からのポリシーになっているそうだ。
一時は老朽化して閉鎖という話ももちあがったそうだが、「まだ使えるのにもったいないし、建物自体も歴史的価値のあるものですから」
ドーム部分には車輪がついていて、屋根自体が動く仕組みになっている。古いものだけど、昔の職人さんの技と工夫はたいした物だ。このドーム部分は大工さんで作れる人がいなかったので、造船技術を持つ川崎造船所(現在の川崎重工)さんにお願いしたとか。
かつて天文台長をされていた世界的な博士、宮本先生の「火星スケッチ」が球体のなかに映し出されていた。観察力もスケッチ力もすばらしい。
望遠鏡には屈折望遠鏡と反射望遠鏡がある。ここにあるのは、両者の長所を持ち合わせた「屈折反射望遠鏡」。
望遠鏡で撮影された天体の写真↓
ドームを出て階段を下りる。
階段の途中にあった注意書き。京大らしいお茶目さが。
開設当初に建てられた「歴史館=旧子午線(しごせん)館は、まるで百葉箱のような佇まい。大正から昭和の洋式木造建築として貴重なもので、天体観測資料などが展示されている。
歴史館の中へ。これは正確な時間をはかるための時計↓ どうやって正確な時間をしるかといえば。
「ファウス製子午線環」という機械。子午線上にくる天体を観測することで、正確な時間を知ることができるのだそうだ。
そのため子午線環の上の天井はガラスになっており、屋根はスライドさせることができる。
このハンドルで屋根を移動することができるのだ↓
なんともアナログでほのぼの。
ほかにもこんな計算機たちが。
タイプライターみたいだけど、計算機。
こちら(上)はタイガー計算機 ↑
この重厚な機械は「アスカニア製 分光写真儀」。太陽スペクトル(七色に光の色を分けたもの)を観察できるそうだ。
しかし、この鉄のかたまりの鑑賞ポイントはわかりづらいな・・・と思っていたら。
文字がレタリングされている商標にやられました! 文字がかわいすぎ〜♡
なんというか、昔のメカって、どこかあたたかい。残念ながらメカ音痴の私には、そのすごさはわからないんだけど、ボタン一つであらゆることをやってのけてくれる機械よりは、人間に近しい気がする。
猛暑の中、Tシャツの背中をびしょぬれにしていたオジさんもいたが、前の老夫婦は見た目涼しげだった。ゆっくり飄々とバスの駐車場へと戻っていた。
いい風景だなあ。
バスのある駐車場に戻る↓
ふと見た看板で、ここが阿含宗敷地であることを発見してしまった!
ツアーの平均年齢は高く、おまけにいつもの半分くらいの人数で、マイクロバスでも充分なくらいだったが、最後までいろんな意味で起伏に富んだバスツアーだった。
15時半には京都駅に到着。伊勢丹で晩ご飯のおかずや和菓子などを買い込んで帰途。さすがに帰宅後の家事は気合いを入れないと、なかなか動けない。去年はそうでもなかったのに、やっぱり年々体力が落ちているのかなあ。日頃から、体力作りの努力しなきゃね。
京の夏の旅は、モダン建築めぐり。
恒例となった「京の夏の旅」2017。今年は近代建築と高台からの京都一望を楽しんだ。
まず、一気に金閣寺近く衣笠あたりへ。バスを降りた公園では、今年一番の大迫力の蝉時雨を聞く。日本のモダニズム建築の先駆けとされ、大正から昭和にかけて活躍した建築家・本野精吾(もとのせいご)の元自邸。
京都市考古資料館(旧西陣織物館)などの代表作で知られる本野が自ら設計して大正13年に建てたもの。日本最初のモダニズム建築作品とも言われている。わりに最近まで、お孫さんが実際に住まわれていたらしい。
当時、コンクリートブロックむき出しの建物は斬新で、「ここのおうちは、ずっと大工仕事が途中どすなあ」と、ご近所さんに思われていたとか。でも関東大震災でももちこたえた「鎮ブロック」は、大正の関東大震災では倒壊を免れた数少ない建物だったのだ。外見は無骨だけど内装はシンプルかつ機能的。ドアノブのおしゃれさにぞっこん。
バスに戻って、本野精伍氏についての説明を、バスガイドさんから聞く。そのなかで、山科にある鶴巻教授の邸宅だった「栗原邸」が、2億円で売りに出されていることを聞き、ショック。以前H氏と数日限定公開されていたのを見学しにいった、あのお屋敷が・・・。
紙魚子の小部屋 パート2(2009秋〜) - 2015年5月25日の記事一覧
ランチは、疎水近くの琵琶湖の水を取り入れた七代目小川治兵衛作のお庭をながめつつ、洋風建築の重鎮・武田五一がつくった珍しい数寄屋造りの「白河院」で、ひんやりした和風のお弁当をいただく。
大きめの麩まんじゅうの他に、桃のゼリーのデザートもついてきて、満腹、満腹。お庭も欄間も鑑賞しつつ、のんびりと食後を過ごす。
ガラス面の面積がとても広い。当時の技術の粋を集めたと思われる。
おかげでまるで戸外にいるかのように、お庭を観賞できた。やはり座って見る位置が最高! 元気な鯉が水しぶきをあげながら、池を泳いでいた。欄間もよし!
ふたたび、バスに乗り込み、午後の部へ。高校時代、体育の時間にランニングさせられた「知恩院」や「青蓮院」の門前の小道を懐かしく眺めながら、東山へ。いまから考えたら、なんて贅沢な体育の授業だったんだろう。
バスを下車。今回、寧々さまゆかりの高台寺はスルー↑ いつでも行けるから、と思っているから、まだ行ったことなかったなあ。
バスから降りて、高台寺近くにある「大雲院 祇園閣」(施主の個人の趣味!!で建てた伊東忠太の作!)の展望所にあがる。
大倉財閥創始者・大倉喜八郎の別邸の一部であった祇園閣は、今年生誕150年を迎える建築家・伊東忠太の設計による昭和初期の名建築(国登録有形文化財)。別名、「銅閣寺」ともいわれている。祇園閣はお寺じゃないけれどね。
塔の先端には鳳凰ではなく、施主の幼名や老年時の名前にちなんで「鶴」のモチーフが置かれている。
高さ36m、祇園祭の鉾(ほこ)をモチーフにした外観で、鬼(魔物)を装飾した照明など、独特の意匠が施されていた。一年中、山鉾がみられるようにという、施主の希望だとか。内部には、妖怪大好きな伊東忠太の趣味で、灯りの玉をかかえた鬼の意匠が。
「大雲院」の入り口。そこはかとない「伊東忠太テイスト」が感じられる。
閣上からは360度周囲の眺望を楽しむことができ、展望所のガイドさんに、下の墓地に「織田信長 信忠の墓」「石川五右衛門の墓」があることを教えていただいて、墓参。ガイドさんは、生粋の京女で、たぶん舞妓さんよりも流暢な京都弁を話されていた。
五右衛門だけに、五円玉がたくさんお供えされていた。
古都らしい土塀のある路地を通る。
お地蔵さまではなく、珍しい大日如来の石仏さん。
ちょっと歩くと史跡がある土地柄。
山門に下げられたかわいいおばけ提灯。
裏から見たら、なんてことはない門なのにね。
バスに乗る前に、「湖月茶屋」で、おいしい「ひやしあめ」で一服し、涼を得る。
ラストはバスで東山ドライブウェイをのぼり、山の中の「京都大学 花山天文台」へ。
動かないホテル
おとといT君が帰省したのだが、昨日は私の出勤に合わせて、金沢へ旅立った。私みたいに「夏なら青春18キップ!」みたいなケチケチ旅でない、特急利用の日帰り旅だ。目的は金沢の夏フェス。やっぱり若いなあ。そういえば一昨年くらいにKちゃんも同じフェスにいってたっけな。
で、昨日22時半予定で帰宅するはずだったのが、トラブルで2時間電車が停止して、缶詰になったらしい。本当は米原で下車してウチに帰るはずだったが、米原に到着するのが遅すぎて、もう帰れる電車はない。どうするのか??と思っていたら・・・。
幸い京都まではなんとか走ってくれたので、一旦京都まで行き、そこから折り返しの最終電車(臨時列車?)に乗り、ヘロヘロのヨレヨレのボロボロではあったが、無事帰ってきてくれた。やれやれ。
特急を降りるときにあった車内アナウンスは
「この電車は京都で終点となります。この先、この電車はホテルとなります」だったとか。
ついてないとこぼしていたTくんだったが、「はじめて『電車がホテルになる』アナウンス聞いたわー」と、この話をしたときだけは、半笑いだった。
「走るホテル」の異名があった夜行列車はなくなってしまったが、「ベッドなしの動かない車両ホテル」は、もしかしたらしばしば営業されてるのかも。乗りたくはないけどね。
ムシトリスミレ
今朝、「ひよっこ」が終わってからちょっと油断して、「あさイチ」を連続で見てしまった。食虫植物について特集されていたから。最近女子の間で人気なんだとか。
我が家ではとっくの昔にブームがきて、とっくに去ってしまったよ。もう10年ほど前だ。それも人気第1位のウツボカズラちゃんをペットにしてたし。蚊を食べてくれることを期待していたのに、ちっとも虫を食ってくれないので、わざわざ小さいのをつかまえてウツボ?に落としていたっけ。
そんな特集を見て、昔のことまで思い出して、隣町まで用事にいったついでに国道沿いの道の駅に立ち寄ったら・・・いましたよ、食虫植物が。
それもひどく可憐な、楚々としたのが。その名もムシトリスミレ。スミレちゃんです。
朝から脳に「食虫植物」とくっきり刷り込まれていたので、即買いでしたよ(単純)
楚々として薄幸そうで、薄命そうな植物だなあ・・・と思っていたけど、車に積んで家について袋から出したら、大惨事になっていた。
なんと花と葉っぱが分離してしまっていた(大汗) 車が揺れた拍子に荷物がずれてムシトリスミレちゃんを圧迫してしまったらしい。
いきなりこれかよ〜。まあ、でも、この茎の細さならいたしかたないか。
こんな感じにして、台所に置いてみた。(ほぼ実物大)
晩ご飯のとき、H氏に「あさイチ」で、花はかわいいのに、根っこで地中の虫を食う食虫植物があるねんて、という話をした。(ウサギゴケというらしい)
「実は今日、食中植物買ってきてしもた。ムシトリスミレっていって花はスミレやけど、葉っぱは虫を食べるねん」
「恐ろしいやつらやな〜。男の敵やな〜。あんたみたいやな〜」
それはもしかして、私がかわいらしいということなのか?と内心喜んだが、もちろん口にはしない。彼のいわんとしているのは、別のアングルであることも知っているのだ(笑)
で、ゴハンのあと台所でムシトリスミレを見つけたH氏は、
「なに、このかわいらしいの」
「さっき言ってたムシトリスミレやで」
おもわず吹き出すH氏。
「ぜんぜん見かけと違うやん。おとなしそうな顔して・・・」
「きっと親から、殿方に対しては、ア〜レ〜ってはかなげに言うようにって躾けられたんやなあ」と、感心していた。食虫植物、おそるべし。
おとなしそうに見える女ほど、実は見かけによらない、かも、という教訓でした。
田原天皇社跡
山瀧寺跡(さんりゅうじあと)には、新しいお堂が建てられている。
宇治田原町の荒木地区にある寺院跡である。
周辺では古くから奈良時代の瓦片が見つかっており、山瀧寺の前身寺院が古代から存在していたらしい。
格子の小さなガラス面から中をのぞく。しがみついてのぞいたが、十一面観音さま(町指定文化財)や掛け仏さまを認識できた人はいなかった。ガラス面の映り込みなど、悪条件もあったかもしれないが、「見る」にはムリがあった。いっそ「秘仏」としてくれた方が、あきらめもつくのに。
ここまでで、マンホールに遭遇できずにいたが、ここでやっと出会えた。あちこちから、「マンホールありましたよ〜!!」という声がきこえる。私のマンホール好きに協力していただき、ありがたや、ありがたや。
少し坂をあがり、山に入って「田原天皇社跡」に到着する。
皇子が詠んだとされる歌は「万葉集」に収録されている。
神南備の岩瀬の杜の時鳥(ほととぎす) ならしの丘にいつか来鳴かむ
石(いわ)走る垂水の上のさ蕨の 萌え出づる春になりにけるかも
伝承では宇治田原の高尾と荒木に館を構え、そこで亡くなったために陵墓が作られたという。
宝亀元(770)年10月、第六子の白壁王が光仁天皇として即位すると、亡き父に「田原天皇」とおくりなしたそうだ。
現在の大宮神社裏参道横に田原天皇社が祀られたが、明治になって大宮神社に合祀された。このあたりは「荒木小字天皇」という地名だが、これは田原天皇にちなんでのことらしい。大胆。
ということで、次のポイントは大宮神社だ。
御栗栖神社の大杉
社殿は一間社流れ造り。
周辺にあった栗林は、「宇治拾遺物語」に登場する天武天皇の煮栗焼栗伝承に由来し、その栗、毎年11月15日禁裏御所に献上する習わしで、明治20年まで続けられていたそうだ。
社名である御栗栖は、朝献の栗林が次第に人々の信仰を集めるうちに定着したものではないかと言われていたが、この栗林も現在は茶畑にかわり、昔日の面影はない。
しめ縄が誇らしげな狛犬さん。
こちらはさらにご満悦↓
絵馬はユニークだったけど、神紋はふつうですな。
この神社でのイチオシの見どころは、これ!
「みあげるような大木」とは、こういうのを言うんだな。
どんどん木に触れて、古木のパワーをいただかなくては!
大木に囲まれた神社は、いかにも本来の神社っぽい。
いごこちのいい場所、というのがいまや私の中では神社仏閣の必須条件。
きっちりと積まれた石垣の表層は、削られたように扁平だ。
これはいつ頃の技なんだろう。
ご神木の前には、ぬけめなく屋根付きの賽銭箱がある。
なんどもなんども何度も見上げるけど、その度に感動する。大きさと太さと、人間にははかりしれない時間とに。
そして足物の根っこにも。
ながいながい時間をかけて、人間が守ってきた物に対する感動でもある。
名前を知らない樹木が若い実をつけていた。
宇治田原の伝承〜御栗栖神社(みくるすじんじゃ)へ
宇治田原はいまでこそ辺鄙な場所にあるけれど、昔は奈良、京都(中心部)、近江、伊勢に通じる交通の要所でもあり、伝承や歴史の宝庫である。天武天皇の石碑に集合する。
弘法大師が井戸をつくったり、与謝野蕪村がこの地を紀行文にしたり、「宇治拾遺物語」では大海人皇子(のちの天武天皇)が宇治田原に立ち寄ったり、幕府に反抗した後醍醐天皇が笠置に逃れるルートにしたり、徳川家康が伊賀越えに使ったり・・・と、枚挙にいとまがない。
次のポイント「御栗栖神社(みくるすじんじゃ)」へ行く途中、ボランティアガイドさんが、橋を渡ったところで、史跡の説明をしてくださった。
「いま渡ったのが『犬打川』で、橋は『犬打橋』といいます。その名のいわれは」
鎌倉時代末、幕府に反抗した後醍醐天皇は、都を逃れて笠置山に立てこもったのは有名だ。いわゆる「元弘の変」である。その笠置に逃れる道中で、後醍醐天皇は宇治田原を通 ったといわれており、ちょうどこの辺で一行は野犬に吠えたてられた。逃亡中なのに犬の声で目立ってしまうので、野犬を打ち殺したといわれている。そこで「犬打」という地名になったらしい。愛犬家のみならず、動物好きには怒り心頭の話であろう。
また遠目ながら、美しい茶畑も拝見できた。高級茶には「おおい」がかけられているそうである。
少し歩いて御栗栖神社(みくるすじんじゃ)に到着する。静かでひんやりした空気に、神社独特の結界に入った感じがした。
年を経た木々に、すうっと清められて行くような気分。
鳥居をくぐる。
壬申の乱の際、天武天皇が来られたとき、村人が焼き栗を献上したそうだ。その栗を土に埋めて戦勝祈願された栗が芽を吹いて栗林になり、そのそばに770年になってから社が作られた。それこの神社のが始まりだそうだ。
山城全体の守護神でもあるらしい。
端正な石灯籠の上には、四方にハート♡みっけ。
蓮花の花弁の下は波。火袋から火がでませんように、というおまじない。実はハートも「猪目(いのめ)」といって、火伏、魔除け、招福の意味がある、もっとも古い日本古来の模様のひとつらしい。
交通安全の絵馬は、モノクロでシンプルなのに絵馬の絵柄としては斬新。買うべきだったかなあ。
こちらは開運招福の絵馬。馬という漢字を鏡文字にするのは「左馬(さま)」といわれるもの。「うま」を逆から読むと「まう」になり、めでたい席で披露される「舞い」を想起されるため、「左馬」は縁起のいいおめでたいものらしい。
馬が9匹いて「うまくいく」というシャレも入っている。この神社の絵馬センスは素晴らしい。
巨大な杉は、町の指定文化財だ。
まずは、おまいり、おまいり。