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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

いけばなの変遷

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 で、昨日行って来た京都文化博物館での特別展「いけばな」の話である。

 ところで「いけばな展」ではない。いけばながずらりと並んでいる華道の発表会や展示ではなく、いけばなの始まりから現代までの変遷を追いかけたものである。

 もちろん「いけばな」は仏教と深く関わっている。そもそもは仏壇に供えたお香の容器の細い口を花を挿して封じた、というようなことが書いてあった。仏教に縁があるので、花を生けるのはお坊さんや庭師だったようだ。

 その後、「いけばな」成立以前にも、歌会などで花合(花を生けるのを競う)などもあったけれど、もっぱら競われるのは花器だった、というのが可笑しかった。現代人から考えれば、まるで柏餅の葉っぱを食べて餅を捨てる、みたいな。もしくは、お茶の味よりも、お道具に興味津々な数寄ものみたいなかんじだろうか。

 七夕の行事とも花は縁が深く、七夕法楽のときには扇形の大きな花束をつくり(たぶん七夕なので五色なのではないかと思われる)、それを川に流して織姫・牽牛に手向けたりした。

 秀吉が天下統一を果たした頃に茶道がピークを迎えたのと同様、いけばなも豪華になっていった。江戸時代中期には、寺院や身分の高いひとたちのものだったいけばなが庶民に大流行。

 明治に入り江戸時代には男子のたしなみだった華道が、女子教育に取り上げられる。そうだ、ほんのこの間まで華道は、花嫁修業の一つとなっていたっけ。

 広く浅く「教える」というその過程で、生け方には細かい規則ができ、それは女子たちにいけばなが大きく流布するという意味では貢献したのだけれど、一方いけばなの自由度が大きく狭められてしまったという。

 また、この頃には外国人がいけばな文化をアートとして賞賛し、海外に紹介している。パリ万博には「いけばな」文化を紹介する短い映画まで作られたらしい。

 そういえば安土桃山の頃の池坊の始祖であるいけばな名人のたてたお花の絵が彩色され、お手本として残っているが、それは意外にアバンギャルドで大胆不敵で自由なのに驚いた。池坊って保守的だと思い込んでいたから。

 特別展「いけばな」を観た後、建物内の豆腐/ゆば専門店にて、ゆばカレー丼(サラダ/冷や奴付き)にトライ。最近あっさり系のカレーに傾倒している私にとっては、願ってもないご飯だった。

 その後、寺町通りを目指し、次いで二条通りまで歩くのだが、その話はまた明日。