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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

諸行無常

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 ゴールデンウイーク最終日の5月5日は、恒例により私の実家に里帰りである。

 流鏑馬(やぶさめ)のお祭りがあるのだが、京都のように本格的な流鏑馬ではない。私の小さい頃から、すでに馬上で弓を放つような痕跡もなく、簡単なかみしも姿で借り受けた馬に乗り、短い距離を鳥居をくぐって往復するのみだ。

 しかしそれでも、ホンモノの走る馬に乗って手綱を取りUターンを繰り返すのを間近に見るのは、なかなかの迫力である。

 もっとも今回は、それさえも見に行かなかった。

 本堂の横の床の間のある古い、さして広くないお座敷で、夫婦でそれぞれに爆睡していたから(笑) 外には半世紀ほど前の山崩れで埋もれてしまった幻の歴史あるお庭の一部と、山の際が見える。山に吹き渡る風の音が、樹々をそよがしてなんとも心地いいのだ。鶯もよく鳴いていた。

 H氏はその前に山に入り、終盤のタケノコ採りをして、汗だくでしゃべることもできないくらい息を切らして帰って来たので、お疲れだったのだろう。私は一足先に目覚め、客間に戻ってお仕事メモを別ノートに整理しながら、両親のおしゃべりを聴いたりしていた。

 ふたりともすでに70代なので、他愛のないおしゃべりですらいとおしかったりする。とくに母親は心臓を患っているので、油断はできない。ふたりそろって、なんでもない話を延々としているのを聴けるのは、娘としては幸せな事だとしみじみ思う。

 そしてそれはそのまま、私たち夫婦にも当てはまる。そんな話をこのあいだの大阪でも、実はすでにしていたのだ。「もしも」という仮定ではあるものの切ない話をしていると、いま一緒にいられることがとても貴重に感じられた。明日の事は誰にもわからないのだ。

 のんびりと静かな自然の音を聴きつつ、両親のおしゃべりを聴きつつ、夫の気持ち良さそうなお昼寝姿を見つつ、『期間限定』の日々を思う。ゆるゆるな坊さんのような気持ちになる。