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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

金太郎について

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 Kちゃんに「一寸法師」のあらすじを教えてあげた流れで「金太郎」話題になった。

「金太郎が熊にまたがってるのは、乗馬の練習をしていたからやで」と唱歌の知識を駆使して教えてあげると

「それ根本的に間違ってる。熊に乗っても馬の練習にはならへん」という、もっともなご意見を返していただいた。と共に金太郎にまつわるこんな疑問を提出してくれた。

「それよりなんで金太郎は斧持ってるんやろ? 子どもが武器持ってるって、危なすぎ!」

 いえ、オノじゃなくてマサカリなんですが・・・。しかし、これが実は滋賀県にも関わっているふか〜い話に繋がっているとは、知るよしもなかった。意外にも深い問題提起だったのだ!

 家事もすべて終えた深夜に「金太郎」について調査開始。例によってウィキより。

金太郎にはいくつも伝説が存在するが、静岡県駿東郡小山町金時神社(金太郎が祭られている神社)に記されたものによると、天暦10年(956年)5月に誕生したという。彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供とされる。八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。

成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。

そして天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となる。名前も坂田金時(きんとき)と改名し、京にのぼって頼光四天王の一人となる。なお、他には渡辺綱卜部季武碓井貞光が四天王に名を連ねる。

永祚2年3月26日(990年4月28日)、丹波の国、大江山(現在京都府福知山市)に住む酒呑童子を退治する。酒呑童子は都に訪れては悪いことをするため、源頼光や四天王たちが山伏姿に身をかえ、神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って退治した。

坂田金時は寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(つくし・現在北九州市)へ向かう途中、作州路美作(みまさか)勝田壮(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去。享年55だったという。

勝田の人々は公時を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬った。その神社は現在、栗柄神社と称する。

 年月日まで記された異様に詳しい記録だが、実のところ彼が実在の人物かどうかも疑わしいようだ。どうやら当時の実在の人物が物語や歌舞伎や浄瑠璃などで脚色され、各地にさまざまな金太郎伝説を生んでいったらしい。

 同じくウィキより、金太郎と近江の地との関わりが記されていた↓

滋賀県長浜市米原市は、昔は坂田郡であり、坂田金時坂田郡の人であると伝えている。今も長浜市には足柄神社や芦柄神社が何カ所もあり、子ども相撲が今も連綿と行われている。なお、この地域は古代豪族息長氏の本拠地であり、金時はその一族であるという。王の文字はマサカリの象形文字で、腹掛け姿は鍛冶を象徴することから、いち早く鉄文化を手に入れた豪族というものである。

 昔話に埋め込まれた、いにしえの歴史とでもいおうか。あなどれない、昔話。