「ヌー銅」を考察
そう、白鳥路には、みうらじゅん先生が提唱する「ヌー銅」、つまりヌードの銅像が多数あった。
手のひらで庇を作り、遠くを望むうら若い女性。「ほら、あっちよ!」と威勢良く腕をあげ、きっぱりとかなたを指差す元気な女性。しかしそんなポーズのときに、なぜ裸なのか。裸のときにそんなポーズはしないし、そんなポーズのときは何か身につけているはずだろう。
しかも彼女らは、裸でいることに何の躊躇も無い。天真爛漫かつ大胆だ。銅像だからリアリティは不要なのだろうか? 不思議だ。
ここまでは、常に「ヌー銅」をみる度に頭に思い浮かぶ疑問であるが、今回は珍しく比較研究の機会を得た。なんと、男性「ヌー銅」(もどき)が3体もあったのである。
まず最初に出会ったこれ↓
この不自然な足の組み具合はどうだろう! ヨガのレッスン中を装っているのかもしれない。でもキミの(あるいは作者の)思惑はバレバレだ。断固、公開拒否!
さすがに無理なポーズを取らせるのはどうか、という反省があったのだろう。次はこう来た↓
これをみた時の私の脱力感ったら!!
知恵の木の実を食べたアダムだって、イチジクの葉が一枚だったはずだ。どうでもいいことだが、私は旧約聖書の楽園追放の絵をみると、アダムがイチジクの葉でかぶれなかったか、いつもしなくていい心配をしてしまう。
目の前のこの人は、かぶれることはなさそうだけど、しかしこの大量の葉っぱは、ヨガ以上に不自然ではないだろうか? しばらく葉っぱの個所に目が釘付けだった。はからずも旅先で、しかも早朝からずいぶんな不審者になってしまったではないか。
もしかして股間に月桂樹!?とか、想像力の最果てまで思考が駆け巡ってしまったのだ。
ふたつめであまりに脱力したため、最後の1体は、写真を撮る気力も失せてしまったが、遠い目をして立っていた青年だった。そして彼はパンツ一丁だった、ということをあわせて報告しておこう。
「自分の肉体でかくす」→「葉っぱでかくす」→「パンツで覆う」という変遷なのだろうか。なんだかズルい。卑怯ですらある。
わが家の近くの施設に、「ダビデ像」の等身大のレプリカがある。ダビデ像はいわずと知れたミケランジェロの傑作だ。そして堂々たる全裸である。
その施設に小学生男子が行くと、芸術を理解しない彼らは必ず爆笑し、大声で連呼する単語がある。某ブログによると、係員の方は、彼らを引率するPTAの人から「(ダビデ像に)パンツをはかせてください」と、よくいわれるらしい。
やはりミケランジェロは器が違うのだ。芸術を作っているという自信の現れだろう。
翻って、女性像は不自然なポーズのヌー銅、男性像は卑怯な隠匿ヌー銅。ミケランジェロへの道のりは遠いなあ。