「戦争って、なんや」
『カーネーション』のツワモノたちが作り出す世界で、『戦争』はどう描かれるのか、というのにものすごく興味があった。さんざん手あかにまみれたドラマでの『戦争』表現を、新しいアングルでみせてくれる。しかも最小限の時間とセリフとカットで、最大限の効果をあげているように見える。
まずは遡って松坂のおばあちゃん(十朱幸代)の名言にあった、「あんな、カメムシみたいな、ぶっさいくな」ものとは、(陸軍の)軍服のこと。
カメムシかあ。言い得て妙とはこのことだな。ぞろぞろとやってくるやっかいなやつら。野菜を作っている人なら判ると思うけど、カメムシは松坂のおばあちゃんの口調に込められたのと同じくらい、農業者にとっては憎むべき輩なのだ。
次いで、お菓子屋さんに栗まんじゅうを買いにいった糸子が、お菓子がほとんど入荷されて無い状態なのを憂いての、心のつぶやき。
「国民から栗まんじゅうまで取り上げるようなみみっちい事で、日本はほんまに戦争に勝てるんか?」
そうそう、戦争中の話でものすごく身近なのは「甘いもの=お菓子」がないということ。これはなぜか、殺し合ったり、ゴハンがない、という悲惨さよりずっと、こう、切実に「来る」のですよ。たぶん食べ物のなかで、まっさきに削除されていくのがお菓子なんだろう。
映画『エクレールーお菓子放浪記』は、私には、いかにも「まず感動ありき」な、そういう意味ではちょっとあざといなぁという映画だったけど、確かに「お菓子」って平和や幸せの象徴かもしれない。(糸子が買って来たクリスマスケーキが楽しさや豊かさの象徴だったように。ぐちゃぐちゃのケーキが絶望と悲しみの象徴だったように)
そして戦争という大事対応して「みみっちい」ことをする「お国」への、笑いとアイロニーに満ちたセリフだった。
徴兵された勝がお雑煮のお餅を食べられているかなぁと悲しげに切なげにつぶやく糸子の父、善作に、
「そりゃこれからがんばって戦わないといけないから、お餅くらい食べられますよ」と例によってのんきにこたえる母、千代さん。
その言葉に「へっ」と苦く笑い「おまえなぁ、軍隊ちゅうとこは、そんな甘いもんちゃうんやぞ」とつぶやく善作。
その善作の様子だけで、いままでドラマや小説や映画で知っている「軍隊」の様子が脳内にぱーっとパノラマになって押し寄せる。おそるべし、小林薫の演技力。
「国防婦人会のおばはん」に「夫がお骨になって戻ることこそ」と言われて逆上した糸子が、その夜寝付けなくて
「(男たちを)ぼんぼん石炭みたいに焼いてしもて、いったい日本は戦争でなにが欲しいんや」「戦争って、なんや」
と心で反芻され、チョーシリアスにもっていかれるも、
「寝よ寝よ、浮気したダンナのことみたい(しらんわ)」とばっさり切り捨てて「浮気やで、浮気」と浮気への恨みで思考を停止させようとするところが、糸子独特のかわいさというか、切り替えがすばやいというか、なんというか。
しかしこの、「戦争って、なんや」というのは、基本的で普遍的な問いかけだなあ。そして、この直ぐあとに「寝よ寝よ」「浮気やで」というセリフを持ってくるのが、なんともうまいなあ。このショートカットが、逆に妙に余韻を残すのだ。
大スペクタクルで大金を投じた映像をもって戦争を描くのではなく。
寸鉄人を刺す、みたいに軽快で、戦争のばかばかしさや愚かさをみせてくれ、笑いをまぜながら描いている。そういうものを、私はずっと待ち望んでいたような気がする。