読書の記憶の箱 その2
きのうの続きです。
昨日書いたように『小さい魔女』には、ちらっと「やきグリ売り」の人が登場する。本では「栗」ではなく、ドイツ風に「マロニ」と呼ばれていた。春雨もどきの「マロニー」も知らず(まだなかったのかも)、「麻呂に」というおじゃる丸言葉も知らなかった頃だ。舶来のロマンチックな響きが、昭和小学生の少女の頭の中を駆け巡った。
寒い寒い積雪の路上、熱いストーブで焼いたマロニを売る・・・そんなヨーロッパスタイルの焼き栗の屋台(?)に、私はすっかり魅せられてしまったのだ。
マロニ、食べたい!!!
昭和40年代の田舎には、むろんそんな店はない。かろうじて駅のキヨスクでしけた天津甘栗が販売されているくらいだ。
しかしこの少女は画期的な方法によって、その憧れを満たすのだ。茶の湯で使われる変換ワザ、「見立て」という手法によって。
年に一、二度は、家族と京都へ買い物などに行くことがある。まだ市電の路面電車がのんびり走っていた頃である。
その京都の目抜き通り、河原町〜烏丸間の四条通りに、巨大な釜で回転してじんわりと焼かれている天津甘栗の専門店があったのだ!
当時、天津甘栗は、わが家ではけっこう高級な食べ物だったが、たぶん都会に来たウキウキ感で両親もテンションもあがっていたのだろう。たまにではあるが、渋ることなく買ってくれた。
赤い袋に入った、どうみてもメイド・イン・チャイナ以外にはありえない甘栗を、それでも路上で買った「焼き栗」には違いない!と思うさまヨーロピアンナイズの想像力を駆使した。今風にいうなら「やった! マロニ、ゲット!!」と心の中で快哉し、どれだけほくそ笑んだことか(笑)
こんなムリムリな見立てができるのは、やはり子ども時代の特権といえよう。