以前の「紙魚子の小部屋 パート2」はこちらhttp://blog.ap.teacup.com/tanukitei/から、 その前の「紙魚子の小部屋」はこちらhttp://ivory.ap.teacup.com/tanukitei/から。

紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

いしいしんじさん

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 だいぶ前の話で恐縮だが、11月半ば、近江八幡図書館で行われた「いしいしんじ講演会」に行ってみた。

 ご自身で言われた言葉でいうなら、「始めの頃は小説を書かないリリー・フランキーさん、あるいはエッチなことを書かないみうらじゅんさんみたいな仕事をして」いて、その後ファンタジック、かつ濃厚な人生の滋味をぞんぶんに含んだ小説(おはなし)をお書きになっていらっしゃる作家さんである。

 わたしとしては、中島らもさんといしいさんの対談を読んでいたので、「あんな感じ」のお笑いライブみたいになるのかも?という予想だった。「あんな感じ」とは、マジックマッシュルームや咳止め薬の服用を日常茶飯事のように話し、「メシを1日3度食べるのはめんどう」というような奇抜な中島らもさんと、まるで「夢路いとしこいし」の漫才のように、いしいさんは淡々と(!!)息の合った会話をする飄々さだ。

 今回は講演会なのでピンだけど、実のところサービス精神のある爆笑話だと予想していた。

 ところがなんと豈図(あにはか)らんや、衝撃的に予想を覆されてしまった。彼の小説同様、(人)生の本質に迫るような話のかずかずだったのだ。

 普通の人(作家さんも含めて)は、分厚い空気の層に包まれて自分の身を守って生活している。地球が大気圏に覆われているみたいに。ダイレクトに宇宙にむき出しになってしまうと、とても生きられたもんじゃないように。嘘やごまかしや鈍感さ、といったズルなしで生きて行くのは、あまりにも人生辛過ぎる。そんなのは堪え難いもののはずだ。

 ところがそんな堪え難いような生き方をされているのが、いしいしんじさんで、彼にはあまりに人生の真実がみえてしまうので、嘘もまやかしもバカバカしくてできないのかも。ホンキの話しかできない人なのだ、きっと。

 とても器用な人だし、サービス精神も旺盛なので、周りの人を楽しませたり、会社勤めもされた。それなりに楽しく社会でやっていける人でもあるのだが、そんな器用な過剰適応が、彼自身を深く蝕んでしまった経験もお持ちだ。

 講演会で一番ファンタスティックなのは、彼が高校生の頃、交換留学で好きな場所に行っていい、といわれて、迷わずアメリカのイリノイ州を希望した話。

 アメリカに着いたはいいが、飛行機の乗り換えがある空港に、ホストファミリーの迎えが来ず、待っている間に本日分のイリノイ州行きの飛行機がなくなってしまった。

 必死で高校生のいしい少年が英語で「なんとかならないか」と係員にたずねたところ、向こうの空港なら便があるかも、と言われイチカバチかでいってみた。なんとその空港は郵便用の飛行機で、「小包としてなら」と体重を量り、小包料金を払って郵便物の袋に入り、隣町までたどり着いたこと。着いた場所で「郵便物として搭乗する」のは向こうの係員のジョークだったので、料金は返してもらったこと。

 地元の新聞に「日本から少年来る」とデカデカと記事が載って、地元の議会にも出席してスピーチをしたこと。「なぜイリノイ州に来たかというと、ぼくはブラッドベリが大好きだからです。みなさんのブラッドベリの本の感想などを後でお聞かせください」といい、スピーチ後、フリーな時間にブラッドベリについて居合わせた人たちに訪ねると、全員ブラッドベリを知らなくて、呆然としたこと。

 そんな不思議な高校時代の思い出が、まるで「本の世界にはいってしまったよう」だったと語られたのが、たいへん印象深かった。いしいしんじさんがブラッドベリアンというのも、とても納得な話だったし。

 あのいしいしんじさんと空間を共にした、というだけで、なんだか人生の神秘に触れられた、みたいな気分になった。きっと「天才」というのは、ああいう人のことをいうのではないか、と鳥肌ものだった。でも、とってもチャーミングでおしゃれで、フランクで優しい、サービス精神旺盛なひとなので、「天才」という語から感じる気難しさや孤独とはかけ離れている。

 いや、むしろ「天使」というべきかもしれないな。そっちのほうが、ずっといしいさんに近い気がする。天真爛漫でピュアなのだ。なにより「人生の神髄」というものがハッキリみえるかのような人だから。彼の小説を読むのと同様に、彼の講演会は「知る」とか「理解する」とかでなく、「体験する」ことだったのでした。