山口晃さんを追いかけて。
さて、山口晃さんの挿絵目的で、7月からローカル新聞に掲載されている五木寛之先生の連載小説『親鸞』が、どうなっているのか。知りたい方も多かろうと思う。いくつかの発見があったので、報告してみよう。
まず、五木寛之先生のことなのだが、しごく真面目な小説『親鸞』に、しごく不真面目な挿絵を描かれて、どうお考えなのか。お怒りではないのだろうか。
という心配は、当然のことながら杞憂であった。二人がタッグを組んだ連載は3回目なのだから、お怒りなわけがない。どころか、きっと誰よりも山口さんの挿絵を楽しみにされている節も、垣間見える気がする。
むろん山口画伯も絶好調である。真面目な挿絵のときですら、「もしかすると、どこか細かいところで遊んでおられるのでは??」と、詳細にチェックしてしまったりするほどだ。
山口画伯の画のタッチは変幻自在だ。ペン画のような細密描写。昔話の挿絵のようなほのぼのタッチ。きっちりと丁寧に描かれたごちゃごちゃ感、きっちりと丁寧に描かれたすっきりシンプル感。絵巻のような楽しい筆致。
たとえば、夕餉の用意を整えていたのに客人が不要と言った部分を挿絵にしてしまう。こんな些末な部分をこんな丁寧に描くか? というほど描き込んでいたり。「めし不要」というのを炊事場に伝える下男が、「オレたちひょうきん族」で神様に扮したグレート義太夫のように、腕でバツを作っているのが可笑しい。
親鸞に心酔する大店の主人が、使用人にいかに親鸞が素晴らしいお方かを熱っぽく語る部分では、親鸞ファンの主人は鼻息も荒く、どう見ても五木寛之/著『親鸞』の上下巻を持っている。おお、出たね、山口晃節!
下男の男が酒を振る舞われて「五臓六腑に沁みわたる」という部分をとりあげ、なぜかその男が落語の舞台で「五臓六腑にしみわたる」と言っている絵になっていたり。
親鸞と縁のある商人が恩のある僧に、親鸞の書きものを一晩入手したいのだが、と頼まれ、商人が「それは盗み出すということですか?」と問うと「一晩拝借するだけだ」と返されるシーンは、なんとテスト用紙になっていた。
とまあ、こんな調子で、山口画伯は絶好調にスタートを切った。そして晩年になればなるほど、教団や家族間の悩みが膨らんで行く親鸞を描きたい、と連載前に語っていた五木先生の親鸞像も、やはり楽しみになってきた。
『親鸞』の裏もたいてい広告なので、気兼ねすることも無くさっさと切り抜けるから、スクラップも滞ること無くスムーズだ。
わざわざ京都新聞に替えた甲斐があった、というものである。現段階では、すべて順調にとりおこなわれています。