歌舞練場〜如庵
普段はご贔屓筋しか入れないらしい「八坂倶楽部」の建物に特別公開なので、入れるのだ。ご贔屓筋の接待場所になっている大広間で、ガイドさんの軽快な説明を聞く。
説明をぼんやりと聞きつつ、非常に珍しい欄間が気になる。
竹の節のところを輪切りにして並べている、至ってシンプルな意匠だ。
後でガイドさんに質問すると、◯が八個あるのは「八坂」の八だそう。祇園のシンボル「つなぎ団子」をあらわしているとか。なるほど〜!
そこへプライベートでみえた舞妓さんが!
ガイドさんによれば、プライベートの舞妓さんと合えるチャンスは、そうそうないとか。今回は、レアケースだそう。それにしても同性とはいえ、所作の美しさには、ほれぼれしてしまう。
シンプルながら花型の丸窓。
床の間には掛け軸が。
軸だけで、花も香もない簡素な床の間だ。
ガイドさんの説明がひととおり終わり、庭園に降りる。
灯籠、
書院、
タテに瓦を埋め込んだ小径。ぬかるまないし土が凸凹しないし、見た目もお洒落だ。
織田信長の弟、茶人の有楽斎が造った茶室、「如庵」の名が掲げられているが、国宝の「如庵」とは別物だ。どうもコピーですらないらしい。ホンモノの国宝の「如庵」は愛知県犬山市に移築されてしまった。
もともとこの場所は、有楽斎が再建した建仁寺の子院、正伝院があった場所で、有楽斎はその中に如庵を設けたのだ。バタ臭い「如庵」という名は自らのクリスチャンネームからとったという説もある。東京の有楽町も彼に由来する場所だったらしい。
関係ないけど、『へうげもの』に登場する有楽斎(織田長益)の、古田織部も敗北を認めざるを得ないほどの数寄者でハデ好み、好きだなあ。ピアスもファーもターバンすら着こなす男なのだ。でも利休の重要な弟子なんだな。
半月をモチーフにしているのが、面白い。
通路には石が埋められている。丸いのは石臼リサイクル。
灯籠があったり、
石塔があったり。
そして丸瓦にはやっぱり、「歌」文字がある。
庭を一巡して、元来た場所に戻る。
八坂倶楽部のギャラリー入口に掲げられていた、愉快な墨絵。
(付録)歌舞練場で春に行われる「都をどり」についての覚え書き。
明治維新で政治の中心はすべて東京に移り、天皇・宮家もこぞって東京へ引っ越された。人々は京都が衰退していくという危機感を抱き、京都再建に力を注ぐようになった。
その頃、京都の知事らが掲げた政策は、伝統を保持すると同時に新時代に即応した近代都市を建設しよう、というものだ。その方法の一つとして、 博覧会開催の計画を立てたのだった。
このとき槙村副知事は、博覧会に娯楽性を添えようと、祇園万亭(現 一力亭)の主人・杉浦治郎右衞門に意見を求め、 春季の博覧会の附博覧(つけはくらん:余興の意)として、祇園の芸舞妓のお茶と歌舞を公開することにした。
そこで、杉浦治郎右衞門は、祇園新地舞踊師匠の片山春子(三世井上八千代)などと共に、伊勢古市の『亀の子踊』などを参考に、 お座敷舞ではなく集団での『舞』を考えた。
終始幕を閉めることなく背景を変えることで場面を変転させる、という編成は、 近代的かつ独創的な演出だった。こうして出来た『都』を名とする『都をどり』が、 明治5年、祇園新橋小堀の松の家という貸し席で行われた。