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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

歌舞練場〜如庵

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 普段はご贔屓筋しか入れないらしい「八坂倶楽部」の建物に特別公開なので、入れるのだ。ご贔屓筋の接待場所になっている大広間で、ガイドさんの軽快な説明を聞く。

 説明をぼんやりと聞きつつ、非常に珍しい欄間が気になる。

 竹の節のところを輪切りにして並べている、至ってシンプルな意匠だ。

 後でガイドさんに質問すると、◯が八個あるのは「八坂」の八だそう。祇園のシンボル「つなぎ団子」をあらわしているとか。なるほど〜!

 そこへプライベートでみえた舞妓さんが! 

 ガイドさんによれば、プライベートの舞妓さんと合えるチャンスは、そうそうないとか。今回は、レアケースだそう。それにしても同性とはいえ、所作の美しさには、ほれぼれしてしまう。

 シンプルながら花型の丸窓。

 床の間には掛け軸が。

 軸だけで、花も香もない簡素な床の間だ。

 ガイドさんの説明がひととおり終わり、庭園に降りる。

 灯籠、

 書院、

 

 タテに瓦を埋め込んだ小径。ぬかるまないし土が凸凹しないし、見た目もお洒落だ。

 織田信長の弟、茶人の有楽斎が造った茶室、「如庵」の名が掲げられているが、国宝の「如庵」とは別物だ。どうもコピーですらないらしい。ホンモノの国宝の「如庵」は愛知県犬山市に移築されてしまった。

 もともとこの場所は、有楽斎が再建した建仁寺の子院、正伝院があった場所で、有楽斎はその中に如庵を設けたのだ。バタ臭い「如庵」という名は自らのクリスチャンネームからとったという説もある。東京の有楽町も彼に由来する場所だったらしい。

 関係ないけど、『へうげもの』に登場する有楽斎(織田長益)の、古田織部も敗北を認めざるを得ないほどの数寄者でハデ好み、好きだなあ。ピアスもファーもターバンすら着こなす男なのだ。でも利休の重要な弟子なんだな。

 半月をモチーフにしているのが、面白い。

 通路には石が埋められている。丸いのは石臼リサイクル。

 灯籠があったり、

 石塔があったり。

 そして丸瓦にはやっぱり、「歌」文字がある。

 庭を一巡して、元来た場所に戻る。

 八坂倶楽部のギャラリー入口に掲げられていた、愉快な墨絵。

 (付録)歌舞練場で春に行われる「都をどり」についての覚え書き。

 明治維新で政治の中心はすべて東京に移り、天皇・宮家もこぞって東京へ引っ越された。人々は京都が衰退していくという危機感を抱き、京都再建に力を注ぐようになった。

 その頃、京都の知事らが掲げた政策は、伝統を保持すると同時に新時代に即応した近代都市を建設しよう、というものだ。その方法の一つとして、 博覧会開催の計画を立てたのだった。

 このとき槙村副知事は、博覧会に娯楽性を添えようと、祇園万亭(現 一力亭)の主人・杉浦治郎右衞門に意見を求め、 春季の博覧会の附博覧(つけはくらん:余興の意)として、祇園の芸舞妓のお茶と歌舞を公開することにした。

 そこで、杉浦治郎右衞門は、祇園新地舞踊師匠の片山春子(三世井上八千代)などと共に、伊勢古市の『亀の子踊』などを参考に、 お座敷舞ではなく集団での『舞』を考えた。

 終始幕を閉めることなく背景を変えることで場面を変転させる、という編成は、 近代的かつ独創的な演出だった。こうして出来た『都』を名とする『都をどり』が、 明治5年、祇園新橋小堀の松の家という貸し席で行われた。

翌明治6年には花見小路西側に新設された歌舞練場で第2回都をどりが開催された。これが、都をどりの始まりだ。