1月1日
元旦である。新年である。
だいたい例年、実家から家までの帰宅途中の車中で年を越す。FMラジオとともにカウントダウンをしている。
家に帰ってから、新年早々、夫と「ゾロアスター(拝火)教」についてのバカ話で盛り上がる。薪ストーブ好きは、かくれゾロアスタンだとか、そんな話。「ずーっとバカ話ができる」ような1年を過ごすことが、今年の願いであり、抱負であり、目標だ。
そういえば小学生の頃(昭和40年代)は、たぶん1月2日は登校日だった。登校して講堂に全学年が集まって、校長先生のお話を聞き、唱歌「1月1日」を歌って、下敷きをいただいて帰る。あれはなんだったんだろう。
で、気になったのが「1月1日」の歌詞だ。いや、当時はなんの疑問も抱いてはいなかった。素直な田舎の小学生だったから。でも、今は素直じゃない田舎のおばちゃんなので、どうでもいい記憶が妙に気になったりする。
この歌を知らない方がいらっしゃるかもしれないので、念のために歌詞を復習すると↓
「一月一日」
(一番)
「年の始めの 例(ためし)とて
終(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
祝(いお)う今日こそ 楽しけれ」
まず当時は「ノストラダムスの大予言」が大ブレイクしていたから、「終わりなき世」を信じている子どもの方が少なかったかもしれない。心にもないことを元気に歌っていた訳である。
そしてさらに、察しのいい方は何を言おうとしているのか、おわかりだと思うが、そう
「松竹たてて門ごとに」
を、小学生の頭が変換したのは
「松茸たてて角ごとに」。
それが
「祝(いお)う今日こそ 楽しけれ」
に続いて行く。
そんなシュールな歌を、お経のように未知の呪文のように何の疑念も抱かず、小学生の間中、新年早々、元気に歌っていたのだ。
昭和40年代の田舎の小学生は、今から思えば救いようの無いバカだったと、40年前の自分をしみじみ哀れむ、平成26年のお正月なのだった。