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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

輪違屋

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 レトロな街灯のガラス面に描かれた「知恵の輪」みたいな模様が、店名にもなっている「輪違屋」のシンボル。創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。現在も現役の置屋お茶屋だ。もちろん日本唯一の置屋。10年ぶりの公開だそう。

 建物自体は明治4年に建てられたもの。京都市の指定・登録文化財になっている。

 現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。表にある「観覧謝絶」の札は、いわゆる「一見さんおことわり」の店であることを示している。

 2階が見どころだけど(だから?)、写真は禁止。旅のしおりの写真より↓

 太夫道中に使われる傘を襖に貼り込んだ「傘の間」、本物の紅葉を使って型取りしたうえに彩色した壁が使われた「紅葉の間」が特徴的である。いずれも、もとは当主の部屋だった。

 階段をあがると、「ぎやまんボール」というものが下がっている。これは客同士で会いたくない人と鉢合わせすることを回避するためのものだとか。なるほど、新撰組尊王攘夷派志士が、ここに居合わせても不思議はないもんな。

 ところで置屋は、才色兼備な「太夫」を育てる場でもあるとか。最高の女性をつくるためには、普段から「いいもの」を見ていないとダメなので、凝ったお部屋や調度があるのだとか。いまはさすがに住み込みの太夫はいないけれど、通いの太夫が若干名いらっしゃるとか。

 太夫は美貌以外にも、日本舞踊やお茶やお花はいうに及ばず、香道、和歌、古楽器(邦楽)演奏、書道なども、師範級の腕前がなければいけないらしい。まさしくスーパーレディ。それだけに、客を選ぶことが出来る。大金持ちでも、高い教養を持った紳士でなければ相手にされない。

 歴代の太夫の中でのナンバー1は、幕末から明治にかけて活躍した桜木太夫(さくらぎたゆう)だ。「維新の名花」「幕末の名妓」と呼ばれ、輪違屋においては現代に至っても、その源氏名は「永久欠番」扱いとなっている。

 当初は桂小五郎の深い馴染みであったが、のちに伊藤博文の愛妾となる。伊藤がハルビンの 駅にて暗殺された後は、尼となり、京都市北区西賀茂にて隠棲したという。

 さて、この長い庇には支えとなる柱がない。庭を柱で遮ること無くみられるよう、屋根裏からテコの原理でつり下げた跳ね上げ式になっているそうだ。この技術は現在に伝わっておらず、作り替えることは出来ないそうである。

 そんな庇の下の廊下の曲がり角は、こんな風に組まれている。

 継ぎ方はこんなかんじ。ギザギザとしてるのが、珍しい。

 室内に入ると矢絣のように、リボンの端のようにV字型に継いである。

 1階には、近藤勇の書を屏風にしたものがあった。実は山のように近藤勇の書いたものはあったそうなのだが、この屏風をのこして、すべて古紙回収になってしまったとか。ほかのところなら、襖の下張りになっているそうだ。京都では、新撰組はあまり人気がなかったもんなあ。

 太夫の手紙を屏風にしたものもあった。こちらは営業のお手紙で「またお座敷に呼んでおくれやす」「近々来ておくれやす」みたいな内容だけど、風流に和歌で詠まれているそうだ。「手」もきれい(なはず)。

 さて、輪違屋さんを出たら、「島原西門」をみたり「きんせ旅館」さんの前をとおったりして、次の目的地である揚屋さんの「角屋(すみや)」さんへ。私はここは2回目。数ヶ月前にしっかり堪能した場所だ。