「ふがいない僕は空を見た」
出た当初から評判だったしタイトルが気にはなっていたけど、読むことも無くスルーしていた。
それがやっと手にすることになり、今日読了。来週の読書会の課題本で、しかも先週まさかの病欠をなんとか大チコクに持っていったものの、当番を変ってもらったので、今回の担当は私。
参りました。評判通りに素晴らしい。「そうそう、こういう小説が読みたかったの!」ととても腑に落ちた。
作者は窪美澄さん。「Web本の雑誌」で連載されている「作家の読書道」の窪美澄さんの記事(読書遍歴)が、恐ろしく濃くて何度も読み返したくらい。
現代詩もマンガも明治の文豪もフォローし、寺山修二や澁澤龍彦にも遭遇し、武田百合子の「富士日記」は毎年読んでいるというマニアックな読書家。現代作家では、西加奈子と今村夏子が大好きという、さすがのセンス。
私より3つ下なので、ほぼ同世代。ジェネレーションとしてもシンクロする。「わかるわ〜!」と頷くことも多々あるのは、そういうこともあるのかもしれない。バブルや95年のオウムと震災を経て感じたこととか(実はその前の80年代前半の虚無感や自分探し全盛というのも、前提としてあるのかも)。
彼女がインタビューで「生身の身体(を意識する)」と何度も言っているのも印象的だし、ネガティブな感情を抱え込んでいたのを、フィクションとして出してもいいんだと気づく蓄積があってこその、作品なのかもしれない。
震災のあとは本が読めなくなるけど(この感じもかなりわかる)、「自分と誰かの間の深い感情の揺れを書いている人の本」なら読める、ということで、西加奈子さんと今村夏子さんが来るというのも、理解出来る。
かなりつらい(いたい)社会的モチーフとかもあって、そういうのはたいてい結末が放り出されて辛すぎる読後感なんだけど、これは不思議に優しい。カタルシスで解放されるような救いがあるわけじゃないけど、終わりはほっとする。作者に揺るぎない、丸ごとの生への肯定感があるからだと思う。
欠けていてもつまづいても道を踏み外しても、人間だもの。たとえ落とし穴にハマろうと、世間的な「ひとのみち」を逸れようと、自分ではどうしようもない性癖で犯罪を犯そうと。
許してやったらどうや。大目にみてあげたらええやん。という現代社会の息苦しさとは対極にあるこの包容力が、なんとも心地いい。