熊川宿の神社仏閣。
いくつかの資料館はスルーしても流してくださったボランティアガイドさんだったが、ここ得法寺は強引に境内まで引率される。きっと信心深い門徒さんなんだ。
元亀元年(1570)4月、秀吉と家康を従えた織田信長は、越前の朝倉義景を攻めるため京都から敦賀へ向かう際、熊川で一泊した。得法寺に泊った家康は、翌朝出発に際し、「土地は熊川、寺は徳法寺、余は徳川、因縁あるかな」と云ったとか。
その時境内の松に腰を掛けたといういわれを持つ松の木が境内東隅にあり「家康腰掛けの松」と呼ばれていた。
残念ながら松食い虫の被害に遭い、現在は根元だけ。
かつて北川を往来した舟運の米がこの路地を通り、松木神社境内にあった蔵屋敷に至ったことからこの名がついたそう。
レトロな看板が散りばめられた懐かしい風情。
なんとなく馬肉を思わせる色合いの看板。
街道は続くよ、どこまでも。という気分。
もうここから出られなくなったのではと、ふと思う、不思議な場所。どことなくちぐはぐな感じがするのだ。時空の歪みを感じるSFな場所。
松木庄左衛門は、苦しみにあえぐ若狭の農民を救うため、一命を投げうって大豆年貢の引き下げを実現した。時に庄左衛門はまだ28歳。
松木神社は昭和8年に建てられたもので、境内には庄左衛門の遺徳を顕彰するため、昭和10年に建てられた義民館もある。
塗込めや土戸といった防火機能のある問屋建築、倉見屋(くらみや)荻野八左衛門家住宅。
平成26年に国の重要文化財に指定された。ほやほやの重文。
下ノ町と中ノ町の境まで来た。ここは、いわゆる「ます形」の矩折れになっており、熊川では「まがり」と呼んでいる。
昔、敵の突進を防ぐために作られたであろう曲がり角で、藩の規則や命令などを掲示する高札場(こうさつば)にもなっていたようだ。