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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

お宝拝見

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 光悦寺のお宝の最初は「本阿弥光悦像」だ。作者は高村光雲。あの高村光太郎のお父さんだ。ご住職の説明によれば、光悦の孫(光甫?)のつくった光悦像の写しだとか。

 この像には、後に神坂雪佳が光悦寺の再興を祈願して作った厨子もついている。厨子には、鉛の蔦の模様が入っている。蔦は琳派の象徴であるらしい。

 次は有名な国宝「舟橋蒔絵硯箱」。異様に盛り上がった蓋は、鷹峰の山の盛り上がりを象徴しているのではないかという意見もあるようだ。

 この硯箱には『後撰和歌集』に収められた源等(みなもとのひとし)が詠んだ歌が題材になっている。

「東路の(あますじの) 佐野の舟橋かけてのみ 思い渡るを知る人ぞなき」

という和歌だが、 この「船橋」の部分だけは文字がない。金蒔絵に施された部分に舟の絵が描かれ、蓋の中央に鉛の「橋」が架けられていることで、「船橋」を示しているのだ。かなり洒落ている、ウィットに富んだ作品だ。光悦という人となりが偲ばれる。

 光悦好みの雑器盆には、全体にさざ波を表した線がもりあがり、縁には小さな小さな銀色の桜と金色の紅葉が、控えめに散ちらされていた。

 茶釜もあった。かなり大振りで小さな蓋がちょこんと載ったものだ。当時茶の湯は男子だけのものだったので、重く男らしい道具が使われていたのだとか。

 光悦作の「烏丸光廣像」は、本体は粘土、足のみ陶器という不思議な異素材コラボの作品だ。

 年老いてから抹茶茶碗の作陶を始めた光悦の傑作、「楽焼黒茶碗 銘 雨雲」。これは光悦が、どの方向から見ても柄が違って見えるように苦心して作ったものだという。

 鉛、金、螺鈿、漆と、自由に琳派の技を使い倒した飾り棚も拝見した。これには兎や蝶、鶴などが描かれているのだが、琳派の「誇張する」表現がよく現れている。兎はより耳を長く、蝶はより触覚を長く、鶴はよりクチバシを長く、というのが、琳派らしさだとか。

 尾形光琳の作品、重要文化財である「住之江蒔絵硯箱」は、有名な百人一首の恋歌「住之江の・・・」という和歌がもチーフだ。銀板でかたどった文字が絶妙なバランスで散らされている。大胆に切った鉛板を嵌め込んだ岩や、金蒔絵による波間は、むろん光悦の「舟橋蒔絵硯箱」へのオマージュだとみてとれる。というか、箱のうらに光悦の硯箱の「写し」であると本人が書いているらしい。

 本阿弥家伝来の「御客前 刀剣用 (蒔絵の台や蓋付きの)砥石」というものまであった。御客前というのは、お殿様の前という意味で、砥石で刃物を研ぐのではなく、それを前に置きながら大名とお話をするためのものらしい。というわけで、砥石は名品ながら(だから?)、ほとんど使われていない。

 と、名品の数々をみせていただいたが、実は「光悦像」以外の本物は、ほぼ名だたる美術館などの所有だったりする。つまりここにあるのは、ほぼレプリカである。それでも「写し」を作る為には高度な技術が必要な逸品なのだ。

 最後にご住職は、「光悦寺(うち)の自慢は、400年前の風景が、そのまま変らず残っていることです。まあ、単純にずっと田舎だったということなのですが」と締めくくられた。

 

 いやいや、そんなご謙遜を。それは堂々と自慢すべきことですよ。400年前の「物」が残っているより、よっぽどレアケースなんですから。田舎、バンザイだ。

 光悦の「楽焼黒茶碗 銘 雨雲」(〜11月23日)と「舟橋蒔絵硯箱」(〜11月1日)は、現在、京都国立博物館で開催されている『京を彩る琳派』展でも見られるので、展示期間中に是非どうぞ。