茶室を巡る。
境内には、光悦遺愛の薄墨の手水鉢と石灯籠が内露地にあり、1915年再興された茶室「大虚庵」が建つ。
大虚庵は、いくつかある茶室の中では、最も古いもの。大虚庵は光悦終焉の地である。
周りを囲む竹を組んだ垣根は、左右で高低差があり「光悦垣(臥牛垣)」と呼ばれている。
光悦垣の内側から溢れ出しているのは、楓と萩。
紅葉には早かったけど、楓と萩がコラボする様子が見られたのはラッキーだった。
境内の他の茶室には、光悦像を安置する光悦堂がある「三巴(さんぱ)亭」、
かつての常題目堂跡に建つ「了寂軒」、光悦の号・徳友斎に因む「徳友庵」、「本阿弥庵」、「騎牛庵」など7つの茶室と、庫裏に接した「妙秀庵」が点在している。
そのなかのひとつ、「本阿弥庵」。
これも改修されたらしく、きれいで立派なもの。
竹の樋ですか!? 数寄者だねえ。
北山杉なのかも。
ここでは少し説明があったはずなのに、覚えておらず(汗)
境内周辺は山に囲まれている。
東より鷹ヶ峰、鷲ヶ峰(わしがみね)、天ヶ峰(てんがみね)が借景になる。
この山容は花札八月の「芒(すすき)」(「ボウズ」ともいう)の絵柄の元になったともいう。
そしてこの絶景の中で、小嶋先生の光悦レクチャーを聴く贅沢。
光悦は、辺鄙で治安の悪い鷹ヶ峰拝領・移住をむしろ前向きに捉え、そこで自らの趣味や楽しみの幅を広げた。一族、工匠、豪商(パトロン)らとともに移り住み、理想の芸術村、光悦村をつくったわけである。光悦は和製ダ・ヴィンチともいわれ各種の芸術に秀でていたけれど、そんな前向きで器の大きい人物だったからこそ、みんながぞろぞろと彼に着いて来たのだろうし、彼とともに夢を追ったのだろう。皆が楽しそうに働くうちに、寂しくひなびた鷹峯は、物流の拠点になるほど栄えたそうだ。まるで昔話みたいだ(昔の話だが)。
光悦というひととなりを語る小嶋先生がまた、本当に楽しそうで、光悦さんのこと好きなんだろうなあ〜とほほえましい。