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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

妙喜庵/待庵

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 当日、電車で傘の忘れ物をするというアクシデントがあったものの、降車駅ですばやく対処したので戻って来る確率は高そう。いまのところ曇りなので、傘の出番はない。そしてなんと傘の他にポンチョも持って来ているという、セーフティネットが万全なふたり(笑)

 私だって「電車で傘を忘れる」自信が満々だったので、折りたたみ傘を用意していた。でも雨量が多い場合には小さな面積しかない傘で対処しきれないため、ポンチョもリュックに収めていたのだ。

 ちいさなかわいい駅舎で集合して、出欠を取って資料をいただく。20名が定員のツアーだが、ちいさい駅なので構内は満員(笑) そして今回は、いままでになく年齢層が若い! そして後ほど知ることになるのだが、新幹線でみえたほど遠方からの参加者が少なからずいらっしゃった。

 えっ、そんなタイソウなツアーだったのか!? 「ハイグレード」と冠してあったのは、まんざら過剰広告ではなかったらしい。

 最初のポイント、「妙喜庵」へ。

 「妙喜庵」付近より駅を撮影。これほどの駅近物件なのである。

 千利休の茶室、国宝の「待庵」を持つことで有名。というか「待庵」が有名過ぎて、逆に「妙喜庵」って?と混乱することも。

 なんと「妙喜庵/待庵」を見学するには、およそ1か月前までに往復はがきによる予約が必要で、そんなめんどくさいことをしないといけないばかりに、私はこの場所を通るたび、指をくわえてスルーし続けていた。見学が許可された場合も、にじり口からの見学で、内部には立ち入れない。

 そんなめんどくさいことをしても見たい、という人がいるのは、「待庵」が日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室だからだ。しかもこの茶室には、いまだに多くの謎があるみたいだ。

 現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型らしい。また数奇屋建築の原型ともされている。

 私のように見学の手続きがめんどくさい方は、近くの大山崎町歴史資料館に「待庵」の創建当時の姿の原寸大復元模型が展示されているので、ぜひそちらにどうぞ。

 この碑で、千利休の名前があるのは、もちろん茶席「待庵」があるため。秀吉は天王山の合戦後もこの地に城を築き、半年間ほど住んでいたため。そして千利休を招いて城下に二畳の茶室を作らせたといわれている。また連歌の祖である山崎宗鑑が住んでいたとの説(事実かどうかは別にして)もある。

 「妙喜庵」は昭和初期に建て替えられたものだが、重文や国宝へのアプローチとして、この階段や手すりは、もうちょっとなんとかならなかったものか。まるで子連れで行く公園みたいなビジュアルに見える。

 さて、「妙喜庵」に足を踏み入れると、三和土には瓦が2枚埋め込まれていた。

 また靴を脱いだ足を踏み出す「式台」には、板の間に細い竹が2本渡されているのが、詫びたお洒落感を醸し出していた。そういえば、千利休は竹で花入れを作ったりしてたっけ。茶杓だって竹たし。もしかしたら彼は「竹好き」なのかもしれない。

 庵というだけに、最初の部屋はいきなり本堂になる。20人はいるとぎっしりな、ちいさな本堂である。寺院ではなく庵ですからね。

 そこで引率してくださる案内人であり、山崎の研究者である林先生に、山崎の歴史、地理的特徴、本能寺の変から始まり天王寺の合戦に至る詳細な説明をしていただく。

 このなかで林先生は、「僕がいままでイベントをした中で、雨が降ったことは1回もありません! だから今日も降ってないでしょう?」 と自信満々に宣言されたのだった。

 さて、天気予報VS晴れ女・晴れ男の結果やいかに。

 付記:2015年の6月より、全面的に内部の写真撮影が禁止になりましたので、それ以前のブログなどを探して「妙喜庵」の写真をご覧ください。「待庵」については、それ以前より内部撮影は禁止されていたそうです。