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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

ついに聴竹居!

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 このツアーのタイトルは「錦秋の旅」だったが、滋賀県よりは紅葉が遅れているようで、残念ながらモミジはなかば青い。

 山の中に入って行くので、階段を上がったり、坂道をのぼったり、途中なかなかキツイ場所もあった。が、まだ雨は降っていなかったので、なんとかかんとか付いて行けた。聴竹居に近づくにつれ、ゆるやかな下りの坂道に。

 さてそろそろ聴竹居が、その片鱗を見せ始めました。

 ついにアプローチまでたどり着く。「聴竹居」という素朴な看板が足元にある。そしてこの先は階段になる。

 ピンぼけで申し訳ないけれど、石を組み合わせた階段の全体。デザイン性と機能性を融合させているのが心憎い。足にも目にも優しいのだ。

 

 足元はこんな風。

 段の高さ、ステップの広さも、よく考えられている。

 登りきった場所にあるオブジェのイメージは、心覚えがある。

西本願寺伝道院で見たものと似ている。その伝道院や大雲院(祇園閣)の作者、伊東忠太の作ったオブジェだ。

 聴竹居を作った藤井厚二は、東京帝国大学工科大学建築学科で、「法隆寺建築論」を発表し平安神宮築地本願寺を設計した伊東忠太に教わっている。彼が建築家になる上で、影響を受けた人物なのだ。このオブジェは、伊東忠太へのオマージュなのだろう。ちなみに玄関の中にも同じ物があった。

 

 「家の作りやうは、夏をむねとすべし」。 これは「徒然草」の55段の言葉だが、これを忠実に守って作られたのが、この建物だ。

 藤井厚二は、明治21年に広島県福山市で生まれた。地元で代々造酒家の次男として生まれた。藤井家は豪商で、恵まれた環境で、最高の物に囲まれて暮らしたようだ。彼の美的センスや本物を見極める目はすでに、幼い時から磨かれていたのだろう。成績優秀でスポーツも万能だったようだ。こんな人間もいるのである。

 大学では先述したように伊東忠太の教えを受け、就職した竹中工務店では、「関西建築界の父」と呼ばれる武田五一と出会うという、素晴らしい師たちにも巡り会っている。

 彼が恵まれた財力を生かして、山崎の地に12,000坪の土地を購入して、住宅を研究するべく、5回の「実験住宅」を建てた。

 大正時代には西洋化一辺倒の時代思潮のなかにあって、彼は日本の気候風土に適した住宅を環境工学の視点から科学的に捉え直し、その在り方を追求した。5回目の実験住宅が、環境共生住宅と言われる「聴竹居」だ。これは最高のマイホームであるとともに、顧客に見せるモデルハウスでもあったようだ。

 関東大震災を教訓に、平屋建てにし、屋根の重みを押さえるため銅板葺きになっている。また太陽の角度から日照りを計算し、勾配と庇の長さを変えているため、屋根がなだらか。

 正面は縁側(サンルーム)になっているので、一面がガラス窓。縁側の角には柱がなく、本来壁と柱があるべき部分も窓が設置され、大変美しい仕上がりになっている。また、窓の上部と下部には、プライバシー保護のために磨りガラスを用いた細やかな気遣いが見える。

 というような林先生の説明を、降り出した雨の中で聴く。

 そしていよいよ、お弁当・・・ではなく、その前に内覧だ! 聴竹居の内部へ潜入だ。