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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

宝積寺は3回目。

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 お弁当のあと自由に室内を見学し、スタッフの方のコメントを聴いたり、写真を撮ったり、書籍を買ったりして、それでもなお名残惜しく聴竹居を後にした。この建物に魂を奪われた人たちは、傘やカバンを忘れるといううっかりをしでかす。うっとりでうっかり。  次なる目的地は、急斜面を登る宝積寺だ。これで3回目だから覚悟はしていたものの、やはりこの坂道は辛い。それでもまだこのときには、雨が降っていなかったので不幸中の幸い。  今回、年齢層は高くないけれど、年齢層の高い歴史ウォークのときより、みなさん辛そうである。前は置いてきぼりを食らいそうな私とれんくみさんだったのに、今回はどっこいどっこい。歴史ウォークの方は年齢に関わりなく、やはり歩き慣れていらっしゃるのかもしれない。  そんな苦労をした甲斐があったのは、仁王門の門前でこんな風景をみたとき。  宝積寺については、1回目の歴史探訪ウォークのときにさんざん書いたし2回目には1300年の歴史がある古式ゆかしい「鬼くすべ」の伝統行事を見学したので、今回は、ごくあっさりと。ちなみに「鬼くすべ」は西から入って来る疫病や災いを防ぐ為の行事だ。(上のリンクで詳しく書いています)  宝積寺は寺伝では724年、聖武天皇の勅命を受けたに行基が建てたと伝えられる真言宗のお寺。   (こちらでは↑ 大黒天がお祀りされている)  聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから通称「宝寺」(たからでら)の別名があり、大黒天宝寺として商売繁盛のお寺として知られている。  しかしは貞永元年(1232年)の火災で一度焼失し、現存する仏像等はこれ以降のもの。  歴史上しばしば登場するお寺であり、山崎の戦いでは秀吉の本陣となり、禁門の変では尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれた場所だ。  代表的な文化財として、本堂の本尊の木造十一面観世音菩薩立像(1233年)や、秀吉が寄進した三重塔がある。これは大阪城と同じ瓦がつかわれているらしい。  現在は上の写真のように小さな山寺だが、鎌倉期には大きな伽藍があり、京都にも名の知れたお寺だったそうだ。大山崎から京都の街中に油を売るため移住し、祇園祭も取り仕切った「京住地人」たちが、十一面観音像を寄進したらしい。ということが、観音像の体内文書に記してあったそうだ。  (山号はもちろん「天王山」)  このお寺にある閻魔堂の、閻魔様を始めとする5体の仏像の艱難辛苦に満ちた運命について、林先生からの話をうかがう。  実は、彼らは元は西観音寺というお寺の仏像だったのだが、例の明治の仏難・廃仏毀釈のため、西観音寺が神社に宗旨替えをし、仏像を打ち捨ててしまったのだ。道端に捨てられた仏たちを気の毒に思った宝積寺の住職が、檀家さんの力を借りて宝積寺に安置されたのだそうだ。しかし安置していた場所が老朽化し、帝国博物館(現在の京都国立博物館)が預かることとなった。彼らが戻ったのは、なんと、平成8年に収蔵庫が完成し、平成12年にやっと里帰りを果たしたのだった。  それは15年以上までだけど、京博のひんやりした2、3人しか観覧者がいない以前の常設展示室で、閻魔様とその眷属たちを見た記憶が、私にだってある。展示室でその存在を誇示する迫力の方達だったので、目を奪われたのを覚えているのだ。  こんなふうに居場所を点々とされた「さすらいの閻魔さま」だったのだ。山崎の地でこれからは安心して永住されますように。