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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

阿智神社を目指す。

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 さきほど雨宿りしたアーケードから見た阿智神社が、なんとはなしに気になる。  すっかり晴れ渡った今も、誰もいないけど、思い切って階段をあがってみる。  大岩のご神体?の前に、ちいさな社が。なになに、御祭神は「八意志兼神(やごころおもいかねのかみ)」さま。初めて知る神様かも。  八百万の神のなかで、最も思慮深く、知恵と知識を兼ね備えた、企画開発の神。御神徳のなかに、「痴呆除」の文字が私の中でひときわ燦然と輝き出す。これはお参りしとかなくては! 将来ではなく、いますぐ必要!  でも登っても登っても、どんどん寂しくなるばかり。残念だけど、夕方だし諦めてお寺の方向へ右折。  りっぱな鐘楼を仰いで、その由来などを読む。  別院というのはよく聞くけれど、別格本山というのは初めて。  別格本山「観龍寺」。以下の説明はウィキペディアより。  寛和元年(985年)尭勢津師により現在の倉敷市西岡に慈照院(西安寺)の塔頭として開創。当時は北斗山宝積院と称していた。 室町時代鶴形山の麓、現在の駐車場の場所に移転し、寛永元年(1624年)現在の地に再移転し、同年に宝寿山観龍寺と改称された。江戸時代中期の1740年代に2度にわたり伽藍が焼失、本堂は寛延2年(1749年)に再建以降時代に整備し現在に至る。再建された本堂の屋根瓦は古い物で約250年前のものとされ、三つ巴やリンドウ、菊などの紋が刻まれている。  同じ鶴形山の妙見宮(現在の阿智神社)は室町時代末期に倉敷村の鎮守として現在の観龍寺の場所に祀られ、文禄3年(1594年)に現在地に移転した。寛永元年(1624年)に観龍寺が妙見宮別当となったが、明治2年(1869年)神仏分離令により妙見宮は分離され阿智神社に改称している。  阿智神社については、神社のHPを参照してみよう。  応神朝に朝鮮半島より渡ってきた漢の霊帝の曾孫、阿知使主(あちのおみ)一族。彼等は「製鉄」「機織」「土木」等の先進文化を担う技術集団として、吉備国の繁栄の礎を築き、当時、島(内亀島)であったこの鶴形山に神々の天降られる斎庭として、日本最古の蓬莱様式の古代庭園を造ったと伝えられている。  社伝によると神功皇后がこの付近を航行の折、嵐に遭い祈願されたところ、三振の剣が天空より明るく輝いてこの山に天下ったため、「明剣宮」として、宗像三女神をお祀りしたとされている。  中世、神道が仏教と習合し、明治までは「妙見宮」と称され、旧倉敷総鎮守の宮として近郷近在の人々の尊崇を集めてきた。 祭神の宗像三女神は皇祖神、天照大御神素盞鳴尊の娘神で、海の守護神であり、交通交易、財宝、芸術、美の神でもある。その他、応神天皇を始め、約三十柱の神々をお祀りしている。 また山には神々をお祀りする磐坐(いわくら)が点在し、古代から神の島として崇められてきたと思われる。  社伝では4世紀頃に開創とか。古い! 由緒ある神社なのだ。