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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

極楽へGO!

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 お練りは最初から菩薩さまはやってこない。菩薩さまたちは、そんな軽々しくはない。

 ここでは大地蔵菩薩のお姿になった阿弥陀様を筆頭に、二十五菩薩というフルメンバーでの来迎だ。生前の行いが9ランクあるうち、輝けるベストワンなランクの人にだけ訪れる、オールスターメンバーのサイコーに豪華な来迎をビジュアライズした法要なのだ。

 本堂から地蔵堂へは3往復のお渡りがある。本堂は浄土、地蔵堂は娑婆。そこを往復する山伏、僧侶、お稚児さんなのだが、そのうち菩薩さまが登場するのは3回目の往復に入ってからだ。

 キンピカのお顔の観音様は、この世のものとは思えないビジュアルだが、しかし聴覚に関しても、たいへんに面白い仏教イベントなのだ。

 まず先頭のお坊様のお持ちになる「鈴(?)」が、あの世からのお迎えを告げるミステリアスで物悲しい ♪チーン・・・という音を響かせる。

 山伏部隊の法螺貝の響きは、ヨーロッパのクリスマスイブで奏でられる小編成のブラスのような、哀愁のある深い音だった。しかも私の記念すべき初法螺貝生視聴だ。

 ご詠歌部隊の方が地蔵堂から本堂に戻られるときに、手にはベルのようなものをお持ちで、和讃を歌いながら1本ハンドベルのようなものを小さなハンマーみたいなもので打ち叩く。

 僧侶のひとりは小型シンバルのようなものを両胸に当ててお越しになった。地蔵堂へ向かう角で立ち止まり、呪文のような歌を歌い始め、シンバルを打ち鳴らす。これがなんでかわからないけど、とても面白かった(不謹慎)

 ついに大地蔵菩薩さまの登場! ・・・なんだけど。

 なんだかお元気がなさそう。うつむき加減で付き添いの女性に頼り切っているような。尋常じゃない、しょげ方では・・・。

 お地蔵様!? いったい浄土で何があった!?

 それに引き換え、蓮華台を持つ観音菩薩さま(すくい仏)↓

と合掌する勢至菩薩さま(拝み仏)↓

の思い切りのいいダンスでの歩行は、おもわず見とれてしまった。

 それでも地蔵堂から本堂に戻るときの大地蔵菩薩さまは、別人の様に堂々とされていた。お地蔵様のホームは、やはり地蔵堂である娑婆なのかも。

 よくよく考えれば、これは昔の人が「来迎は、こんなにまばゆくありがたいものでは」という想像をビジュアル化したものだ。なんといっても死ぬ時の「お迎え」なのである。それがこんなにも晴れやかでまばゆいものなら、死という概念が一変するに違いない。というか個人的には一変した、ような気もする。

 もっとも仏教でいう「九品」という徳の最高ランクである「上品上生」の人でなきゃ、浄土の菩薩オーケストラ、フル編成はありえないんだけどね。だからこそ、「これからでも徳を積まなくちゃ!」とうっかり決意しちゃったりするのである。

 目でも耳でも、そしてホンモノ(の来迎)は匂いでも、最高のお迎えを受けられるというのが、こうも分かりやすく理解できるとは。ほぼ2時間にわたる「お練り供養」は予想以上に面白く、まったく退屈しなかった。

 というか、菩薩様が登場されるとテンションが上がってしまい、不必要に写真撮りまくりで、次のお寺の写真が電池切れで取れなかった・・・というほど。

 こうなると「お練り」発祥の、奈良の當麻寺の『聖衆来迎練供養会式』も見てみたい。来年の5月、新しい手帖に予定として入れておこう(鬼の笑い声が聴こえる)