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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

真如堂にて

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

さあ、やっと真如堂の涅槃図にもどって。受付からも斜め越しに見えるが、本堂の奥に入ると、板敷きに座って、ごくごく間近に涅槃図をみることができ、ありがたい。涅槃図は大きいけれど、天上の方々から小さな生き物に至るまで描き込まれているので、近くで見られるというのが必要条件なのだ。

 しかもかなり詳細に説明書きがあり、これも小嶋先生の援助なき身には、たいへんに鑑賞の手助けをしてくれる。

真如堂のHP「境内/寺宝」の涅槃図についての記述より引用(以下、緑色の文字)↓

 この涅槃図は、三井家の女性たちの寄進により、宝永6年(1709)に僧厭求や海北友賢らによって制作されたもので、縦6.2メートル、幅4.5メートルの大きなものです。

 三井家の女性たちの寄進・・・これは真如堂が特に女人を救う寺であることが、深く関わっているのかもしれない。その経緯については、今日のブログの最後、*より添付しておきます。

 厭求は、江戸時代の浄土門の高僧。京都で生まれ、17才で江戸に赴いて、深川で修行をしている時に明暦の大火に遭い、その惨状に無常を感じて大衆救済に立ち上がりました。その後、全国を行脚して過ごし、82才で亡くなるまで、生涯定住しなかったといいます。

 「性甚だ寛宏にして宗派に拘泥せず・・・阿弥陀経を写すこと一千部、弥陀の尊号を書する十万部、仏菩薩の像を画くこと其の数を知らず」(『望月佛教大辞典』)と、様々な宗派の寺々に巡遊・滞在し、厭求作といわれる仏画や仏像が各地の寺に現存しています。

 放浪の高僧で大衆救済に人生を賭し、宗派にとらわれず、しかも仏教アーティスト! でかい人物だったのだ。

 そう、スケールの大きいお坊さんなので、ケチなことは言わない。極楽往生には修行が必要とか、戒律を破れば地獄行きとか、女は修行の妨げとか。

 極楽は人間だけの所有物じゃない。生きとし生けるもの、みな極楽往生できる!とばかりに、涅槃図は生き物たちのオンパレードだ。しかもそれぞれ、花とか草とか、なにがしかのプレゼントを携えて、涅槃佛のもとに駆けつけている。かなしげ、というより、いそいそと亡くなったお釈迦様にお供物を捧げに行く、といった風情は、他の涅槃図とはひと味違う。

 海北派は海北友松を始祖とする江戸期の画派で、京都画壇の名門です。(略) 真如堂の涅槃図は、当時人気の高かった厭求をプロデューサーとし、海北友賢を実際の画工として制作されたものでしょう 。

 また、下部全域には多くの動物や魚類・昆虫などが、手向けの花をくわえたり手に持ったりして、その死を悼んでいる様子が描かれていますが、その数は127種類にも及び、涅槃図に描かれた動物の種類の多さでは日本最多であろうとされています。

 当涅槃図には猫も描かれていますが、猫を描かないのは、お釈迦さまの急を聞いて駆けつけた摩耶夫人が投げた薬が木にひっかかったのを鼠が取りに行く、それを邪魔させないためだとか、猫は鼠を捕って殺生をするためだとか、諸説あります。

 一般的に、涅槃図は制作年代が下がるにつれ、家畜などを描くようになっていきます。猫は、仏典が船によって運ばれる時、鼠の害を防ぐために猫を船倉に入れられたなど、仏教にとってはいわば‘恩人’でもあります。

 僧厭求の弟子貞極は、「猫は鼠を捕って殺生をするから涅槃図には描かないという説があるが、それは根拠のないことだ」と書き記しています。

 画面の左下の水の中には、蛸や魚類が中央で横たわっておられるお釈迦さまの方に向かって賢明に泳いでいる姿も描かれています。

 厭求、貞極の師弟はあらゆる生類を差別なく描くように努めたのでしょう。

 猫どころか、タコやイカ、貝やバッタ、鯨やムカデに至るまでが描き込まれ、見ていたら「ええっ!? こんなものまで〜!?」と愉快痛快なくらいだ。

 カッコイイ坊さんのプロデュースする涅槃図をみていたら、動植物や虫を好んで描いていた伊藤若冲のことも、ふと思い出された。彼もまた、禅宗の坊さんと仲が良かったから、厭求さんともひと脈通じるところがあったのかもしれない。

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真如堂塔頭吉祥院の住職が発信している私的なホームページ

「苦沙彌のインターネット僧坊」からの引用↓

 今から、約1千年前の永観2年(984)、比叡山の戒算上人かいさんしょうにんが、比叡山常行堂のご本尊阿弥陀如来(慈覚大師作)を東三條女院藤原詮子円融天皇の女御・一條天皇の御母)の離宮があった現在の地に移して安置したのが、真如堂の始まりです。

 慈覚大師が30才過ぎの頃、滋賀県の苗鹿のうか明神みょうじんで根元が毎夜光っている霊木を見つけられ、それを割ってみると、座像と立像の阿弥陀さまの形が現れたといいます。大師はこの霊木の片方で阿弥陀如来座像を造立し、自坊に安置。後に日吉大社念仏堂の本尊とされました。立像はそのままご自身で持っておられました。

 その後、大師が唐(中国)に留学された帰り、荒れ狂う波間の虚空より小身の阿弥陀如来が香煙に包まれて現れ、大師に引声念仏いんぜいねんぶつの一節を授けました。大師はこの如来を袖に包み取り、日本に帰ってから、大切にしまっておいた霊木で阿弥陀如来を完成させ、その胎内にこの3センチほど如来を納められました。

 もうすぐ完成するという時、慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になって下さい」と眉間に白毫びゃくごうを入れようとすると、如来は首を振って拒否されました。「それでは都に下って、すべての人々をお救い下さい。特に女の人をお救い下さい」と言われると、如来がうなづかれたところから、「うなづきの弥陀」とも呼ばれています。

 その後、一條天皇勅願寺となり、また不断念仏の道場として、浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者、多くの民衆の厚い信仰を集め、ことに女人の非常に深い帰依を得てきました。