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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

知恩院/法然上人御堂

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 あれあれという間に六月。水無月だ。七転八倒の年末年始から早半年か。早過ぎる気もするが、半世紀生きると、こんなものかもしれない。

 しかし半世紀生きると、神社仏閣に対する感度が増している、というのもまぎれも無い事実だ。時代の空気や経験知というものも関与するのかもしれない。

 東寺もスケールの大きい密教寺院の中枢だったが、知恩院も懐が深いお寺だった。性格ももちろん教義も違うが、宗祖に想いを馳せた空気感は似たものがある。

 

 世俗的な観点でいえば、東寺が国立の寺であったように、知恩院の伽藍は、徳川家が総力を挙げて作ったものだ。国家権力による資金と、建築の実務に当たる庶民たちの、宗教的な熱意が融合した結果と言えるかもしれない。

 浄土宗の教義は「念仏で成仏」というシンプルなものなので、仏像林立という事態はない。見どころと言えば、有名な「知恩院の七不思議」だ。

 その物語性を大々的にフィーチャーしているのは、いってみれば取り立てて「霊験あらたか」とか「ご利益を賜る」モノは必要なし、といった法然上人の信念(教義)に即した場所だからだろう。

 しかし、建物それ自体が発散する場の空気は、なんだかやたら居心地がいい。

 残念ながら、国宝の御影堂は今年の一月より平成30年末までの大修理中で、現在ターフのような防音フェンスの隙間から、のぞき見るくらいしかできない。

 だから、私たちが三門以外で拝観できたのは、集会堂(法然上人御堂)と、そこからフェンスが張り巡らされた御影堂に至る鶯張りの回廊と、その先の仄暗い阿弥陀堂だったが、浮き世を忘れるくらい、じんわりのんびりできた。いそいそと「見どころ」を回ることもなかった、という部分も大きいかもしれない。

 さて、北門をくぐって事務所(!?)を横に見て、

 

 集会堂である法然上人御堂に、あがらせていただく。

 そのまえに、屋根の鬼瓦を。ホンモノの鬼を見たわけでは無いけど、ツノがリアルな鬼瓦だ。

 本堂では赤いコロモに金色の頭巾を被ったお坊様をリーダーとして、大勢のお坊様が読経の最中だった。百人一首の絵柄以外で、赤いコロモのお坊様は初めて観た。頭巾の正式名称は「誌公帽子(しこうもうす)」というらしい。袈裟や衣などの「僧侶制服」(??)を語る人たちの間でも、浄土宗ファッションはわりに人気が高そう。

 ところでたぶん赤衣の主であろうと思われる門主さまのプロフィールをみれば、 仏教大学(浄土宗)をご卒業後、同志社キリスト教)の大学院に進学されているのを知って、いいなあ〜と。複数の宗教の空気に触れると器が大きくなると思うし、だからこその門主さまなのだろう。滋賀県ご出身というのも勝手にシンパシーを感じる。

 広々とした仮の本堂で本格的な声明を聞きつつ広大な畳敷きの部屋を出て、廊下の奥にある七不思議の説明やパネルを見たり、襖の絵や細工の優美で繊細な引き手に感嘆したりする。

 鶯張りの廊下をケキョケキョ言わせながら、工事中の御影堂を覗き見しつつ、のんびりと阿弥陀堂へ。途中、先生たちが引率された保護者同伴の幼稚園児の団体さんに出会う。お坊様が前で、鶯張りの廊下についての説明を幼児バージョンでされているが、やはり「きょとん」「ほわ〜」「うわのそら」が半数ほど。中にはかすかに屈伸運動をするツワモノも。5、6歳なら仕方が無いとしよう。

最後に彼は「ちょっとむずかしかったかな、じゃ、歩いてみましょうか、うぐいすさんの鳴き声をよく聞いてね」と、言ってらした。それでも、お母様たちは笑顔で聞いてらしたので、よしとしましょう。

 幼稚園おかかえの(?)年配のカメラマンさんが、全員分らしい写真を真剣に撮っていらした。卒園アルバム用と思われる。失敗が許されないお仕事だ。そのシビアな横顔に孤独な緊張を垣間みた。

 しかも戸外は土砂降りの雨になっている。光の加減が難しそう。

 というのも、ここで私が撮った写真は、ほぼボケボケで影だらけなので使い物にならないものがほとんどだったから。いや、でも、彼はプロだから大丈夫でしょう。

 阿弥陀堂の屋根の角↑ なだらかなカーブがやさしい。