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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

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苦難の大講堂

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 次に行き当たった建物は、大講堂だ。

 本堂にあがらせていただく。内陣は薄暗く、中央には大日如来を本尊としてまつられている。左右には比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像がある。各宗派より寄贈していただいた宗祖さまらしい。内陣にはあがることができ、木像のまん前で宗祖様の像に手をあわせることができる。

 主立ったところでは、浄土宗の法然上人、浄土真宗親鸞上人、臨済宗栄西禅師、曹洞宗道元禅師、日蓮宗日蓮聖人。

 大講堂の向かって左端にいらっしゃった木像は、私の記憶によればひとり立っていらっしゃった。ほかの木像はすわっているのに。特に理由はないが「あっぱれ!」と感心する。どうも一遍上人像らしい。

 しかし、「ここで修行しても得るものはない」とか「ここはもう堕落している」とか比叡山を見限り脱出した方々も宗祖のなかにはいらっしゃるけど、恩讐を乗り越えるところが比叡山の懐の深さなのだろうか? でもなんだか不思議な気がして、ブログを書く前に大講堂について調べてみた。

 延暦寺織田信長の焼き討ちにあい、壊滅的に焼失しているのは有名だ。だがそれ以前にも以降にも、大講堂は、さんざん火災や災害に遭っている。そしてその都度、建て直されていたのだ。その紆余曲折の歴史は、昭和まで続いていた。 

 寛永11年(1634年)に建てられた旧大講堂は、戦後まもなく大修理が行われたが、それからほどなく昭和31年には火災で焼失している。当時の新聞記事によれば、受付係をしていた未成年の青年の放火であったらしいとされるが、その後、冤罪として無罪判決を得た。

 火事の翌日、修学旅行で比叡山を訪れた山梨県甲府高の生徒100人は瓦礫と化した堂宇を見学するはめになってしまったという。もちろん堂内にあった仏像も焼けてしまった。

 現在の大講堂は、もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを昭和38年に移築したもの。江戸時代の始め頃にできたもので、昭和62年に重要文化財に指定された。

 比叡山から麓まではかなりの距離がある。おまけに山道だ。現在だって消火活動には手間取るだろう。東塔の敷地内に小振りながら(いや大きいと小回りがきかず、かえって不便だ)延暦寺専用消防車が2台用意されていたのは、このような歴史があったからなのだろう。

 過酷な運命を辿った大講堂の歴史を知り、思わずキーボードを叩く手が止まってしまったあげく、1日ブログがとんでしまったのだった。