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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

奥様は信長がお嫌い。

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 長寿寺は拝観料が500円必要で、受付の小屋があるのに無人だった。仕方が無いので受付を通り過ぎて、突き当たりの本堂まで小径を歩いて行く。

 本堂の近くの日陰でいかにも働き者そうな人影が。花壇の柵のようなものに黒ペンキのようなものを塗る作業に専念している初老のご婦人がいた。

 H氏が「あのう、拝観したいんですが、受付に誰もいらっしゃらなかったので・・・」と声をかけると、「ああ、すいませんねえ、今日は誰も来ないと思って、こっちで作業してたんですわー。ちょっとお待ちくださいねー」と、汗を拭き拭き、自転車に飛び乗り受付小屋まで往復される。お寺を管理されている奥様なのだった。必死にペダルを漕がれている様子が「いつも全力!」「一球入魂」を座右の銘にされているかのようだ。本堂やお堂の鍵とパンフなどを取りに行かれたのだ。かたじけない。

 本堂の鍵を開けてくださり、椅子に座るよう勧められる。どこかのお寺のように、ビデオでご案内するのではなく、ご自分で枝葉を交えてお話をしてくださった。ありがたいことである。

 ありがたいのに、H氏はしばらく間を置いては、こっそりためいきをついていた。心中で「はよ終わらへんかな〜」と切望しているのだ。このバチアタリ者が(笑)

 お寺の由緒から始まり、最近みえた団体さんや、「いのち」の尊さを訴えたテレビ番組に感銘を受けたことから、かつてこの寺を焼き討ちした憎っくき織田信長への恨みつらみまで。

長寿寺は天台宗の寺院で、本尊は木造地蔵菩薩だが秘仏になっており、国宝の春日厨子の中にいらっしゃる。なんと50年に一度の御開帳だということだ。

 ところが、超ラッキーなことに、この秋、57年ぶりに御開帳がおこなわれるという。奥様のおっしゃるには、「50年後と申しますと、たいがいの方はもう死んでしまっておりますので、どうぞこの機会にお参りにいらしてください」。たしかに! あと50年は、たしかに難しそうだ。

 そうか、カメラが電池切れという不運は、もう一度来い!というご本尊さまの合図なのかもしれない。

 奈良時代聖武天皇の勅願によって、東大寺の開山である良弁(ろうべん)僧正が創建した寺院だと伝えられている。七堂伽藍をもって建立され、平安時代には、阿星山五千坊の一つとして大いに賑わい、その後も時の権力者の援助の元、存続していった。源平の合戦あたりでもとの本堂は焼失したらしく、現在の本堂は鎌倉時代初期につくられたもの。

 しかし、信長の登場である。本堂は焼かれ、仏像は焼失し、境内にあった三重塔は、安土城内にある信長の菩提寺「そう見寺」を建立する時、ちょうど良いサイズだったため信長に目をつけられ、移築されてしまったのだ。

 奥様、400年以上も前の出来事に怒り心頭だ。

「たくさんあった伽藍も仏像もなくなり、信長の爪痕がいろんなところに残っています」「信長というひとは、節約家(ホントはドケチ!といいたいところだろう)みたいで、自分でつくらず、あちこちからいろいろ集めたんです。長寿寺にあった三重塔を、安土に持って行ってしまいました。」「いまご本尊以外の仏様たちは、客仏で他所から来ていただいたものです」

 信長、憎し!の思いが溢れている。

 奥様は心よりお参りに見える方々を歓迎し、全力でおもてなししてくださり、帰りには受付の小屋の前のオープンカフェ??でお茶と飴を振る舞ってくださった。境内のあちこちにベンチや椅子やテーブルが置いてあり、憩いのひとときを持てる様、心を配ってくださっているのだ。お花の手入れや境内のメンテナンスにも、余念がなさそうである。

 そんなお方をこれほどに怒らせるとは。信長は、罪な男である。