豊国神社にて
以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。
京博をでたら、交差点にみちしるべ。
これより一丁歩いて、豊国神社へ。『へうげもの』17巻に秀吉の七回忌が描かれていたので行ってみたくなったのだ。ちょうど河井寛次郎記念館の通り道だし。
大石の石垣とりっぱな生け垣で、きちんと整備された神社だった。ご神体を祀った神社とはちょっと違う。新しい感じ。
豊臣秀吉を祀る神社で、一般に「ホウコクさん」の名で親しまれているらしい。
手水舎の水盤には、
豊臣家の紋、「五七の桐」が彫られていた。
堂々たるりっぱな唐門の写真を撮っていたら、団体さんがやってきた。女子大生20人ばかりのご一行様と、ダンディな壮年の男性ひとり。女子大のアウトドア講義か? ダンディな標準語の先生が、豊国神社についての説明をしてくださる現場に居合わせてしまう。おう、なんてラッキー!
秀吉の墓は、先生がおっしゃるにはプリンセスライン(京都駅と京都女子大を結ぶバス路線)の突き当たりの山にある。
秀吉は自分を八幡として祀るように遺言したが、神宮寺が建てられ、神号も大明神となっている。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。
(緑字はウィキより引用。以下同)
しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により方広寺の大仏の鎮守とするために廃絶され、大仏殿裏手に遷されている。このとき大明神の神号も剥奪された。神宮寺や本殿は残されたが、それも後に妙法院に移されている。
まことに「必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず 」だ。権力世界での盛衰は平家だけでなく、その後もずっと世のならいなのだ。権力者の敵はワルモノになるのも。
ところが徳川の世も終わりをむかえ、時は明治に。当然「徳川幕府」は明治政府の敵なので、敵の敵は味方となる。
1868年(明治元年)、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。
ちなみに唐門は、南禅寺金地院にあったものを移築されたもの。伏見城の遺構でもある。りっぱなものだと思ったら、やはり国宝である。
歴史は勝者のものであり、勝ったものが歴史をつくる仕組みになっていると先生は言いたかったのだと思うが、果たして女子大生たちに届いただろうか?
まぁ寺院にしたって、昔は広大な敷地や大伽藍や仏像を持っていたのに、権力者に燃やされ消失したりして、いまはちんまりとした本堂のみのところだってある。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。
実は豊国神社では、この「ひょうたん絵馬」が見たかったのだ。
秀吉を祀っているので、ご利益はもちろん「出世」「開運」だけど、秀吉とねねは、当時珍しい恋愛結婚だったので、「えんむすび」グッズだってある。
政治権力に翻弄されるより、季節になれば咲く花に心を寄せる方を選んだのが、もしかしたら西行なのかも。