以前の「紙魚子の小部屋 パート2」はこちらhttp://blog.ap.teacup.com/tanukitei/から、 その前の「紙魚子の小部屋」はこちらhttp://ivory.ap.teacup.com/tanukitei/から。

紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

葛井寺 その1

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。

 私たちが入った門は、「四脚門」。小さいながら、由緒のあるもの。 

 豊臣秀頼が寄進し、桃山様式をよく伝える建造物として、国指定の重要文化財となっている。とはいえ、どこが「桃山様式」なのかは良く分からない。この門の金具の様子なのだろうか?(こういうことがつい気になり調べ始めるから、一向に書き上げられないのだ・・・)

 葛井寺は、かつては紫雲山三宝院剛琳寺と号し、古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳時代に建立された。少なくとも明治時代の中頃は、「剛琳寺」と呼ばれていたらしいので、「葛井寺」で固定化したのは意外と新しい時期のようだ。

 寺伝によると、葛井寺奈良時代聖武天皇によって葛井連(ふじいのむらじ)の邸宅地に建立され、春日仏師に命じて千手千眼観世音菩薩を造らせ、神亀2年(725年)に僧行基が開眼法要を行ったとされているが、発掘調査によって上記のように、奈良時代より古いものであることが判明した。

 室町時代には、奈良・興福寺の末寺として栄えたが、明応2年(1493)、畠山家の内紛に端を発した兵火にあって、楼門、中門、三重塔、鎮守、奥院を焼失し、本堂と宝塔を残すのみとなり、残った建物も地震で倒壊してしまった。

 しかし多くの信者の尽力により、復興勧進で再興された。いつも思うけど、昔の日本人の信仰の力はすごい。焼けても壊れても、何度でも再建してしまう。

 この本堂も国の重要文化財に指定されている。

 かつて花山法皇が本尊を参拝したとき本尊の眉間から光が射し、この灯籠から紫雲がたなびいたと伝えられている。そのときから「紫雲石灯籠」と呼ぶようになったとか。紫雲石灯籠を本堂方向からみたところ↓ お百度用の石もある。

 紫雲石灯籠を南大門方向からみたところ↓

 山号紫雲山」のもととなった紫雲石灯籠は、聖武天皇の寄贈と伝えられ、大阪府指定文化財となっている。

 本物は傷みが激しいため、これは欠損箇所までそっくりに造られたレプリカ。なので、「紫雲石灯籠の写(冩)し」の石碑が横にある。

 このお地蔵さまは、「出世地蔵大菩薩」さま。その向こうに見える松は「旗掛けの松」または「三鈷(さんこ)の松」と呼ばれているらしい。松葉はふつう二葉がつながっているが、ここのは三葉になっているとか。だから「三鈷」ともいうのか。

 南北朝の動乱期、楠正成が本尊に戦勝祈願をしたとき、菊水の旗を掛けた木とされている。楠正成が戦勝祈願をしたとき、三人の息子(正行、正時、正儀)に、この松葉(三葉になっている)のように三人が力を合わせ一つになって武士道に励むよう誓わせたという。以来、この松葉を持つと力が付くという言い伝えがあるそうだ。

 三人が力を合わせて? どっかで聞いたことが・・・。松葉とか矢とかが違うだけじゃん! レジェンドにはパターンが付きもののようだ。

 弘法大師堂。大きなシャチホコや鬼面の瓦が乗っかっている立派な建物だ。

 隣には弘法大師修行像がある。

 その隣にはお坊さん(弘法大師!?)の顔出し看板が。