プロの案内人に遭遇す。
もともと養源院は、豊臣秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の時(文禄3年・1594年)に創建した。
一度は焼失したが、淀殿の妹で、徳川秀忠の正妻であったお江(おごう)の方(後の崇源院)の願いにより、元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再興された。以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。
すごいお寺やんか〜!!
「血天井」は、養源院の廊下の天井だが、もとは伏見城の廊下だったものを、そのまま寺の廊下の天井として貼ったもの。つまり、お城の廊下をそのまま天井にしたわけだから、寺院の造りではないそうだ。お城の建て方の寺院なのだとか。
なぜわざわざそんなことを、という説明をしてくださったのが、柴田理恵をきれいめにしたおばちゃんだ。
慶長5年(1600年)8月1日に伏見城の廊下で自刃した200名を越える徳川家の家臣を供養するためとして、徳川秀忠の正室・お江が豊臣の寺を再興したのだ。
死屍累々で徳川の家臣たちの血に染まった廊下は、伏見城で石田三成の軍勢を足止めし、関ヶ原の戦いを徳川の勝利に導いた勇猛果敢な家臣たちを顕彰するものでもあるのかもしれない。
浅井三姉妹の父を供養するために建てられた寺が、豊徳合体をも体現する寺となったのである。
ところで、案内をしてくださったおばちゃまは(といっても同年代くらい)、声に張りがあり、気さくで明るい語り口だった。「血天井」の説明をするときも、「はい、壁にぴったりくっつくと判りやすいですよ!」と、鑑賞のアングルまでフレンドリーに教えてくださった。
「ここがちょんまげ、ここが右手、こっちが左手で、この足は曲がっているけど、こっちはまっすぐ。」と長い棒をつかって天井を差しながら、これでもかという丁寧さで説明してくださった。倒れている侍の姿が、ありありと見えて来るようだった。
途中で若い住職(息子さんか?)さんにバトンタッチ。お二人で参拝者を案内されているのだ。俵屋宗達の「松図」が、いまだ現役の襖としてむき出しで保存されているのは、ここだけ、ということだった。若松から年月を経て老い松になるまでを、ぐるりと描いてあるそうだ。
本堂の廊下はうぐいす張りで、静かに歩くほど音がするんだとか。そのため天下の大泥棒、石川五右衛門もお縄にされてしまい、南禅寺で油の入った釜に入れられた、と。
えっ!? 油?? じゃあ「釜茹での刑」ではなく「カラアゲの刑」だったの?? うわ、みたくないよ、それは。
それにしても、どちらの方の案内にも、惰性や事務的な感じはなく、「養源院」に誇りと愛情をもっている口調が好もしい。説明も詳しく熱が入っていて、楽しい。
帰り際に「いかがでした?」とちょっと心配そうに、おばちゃまが訪ねられたので、「よかったですよ。テレビの『ぶらぶら美術館』のお正月京都スペシャルを見てきたんです」と応えたら、とてもうれしそうだった。『ぶらぶら美術館』の収録は、好印象だったらしい。
帰りかける後ろ姿に、「あの、もしまだでお時間があれば、お江さんのお墓にもお参りされませんか?」と、おばちゃまから声がかかる。あ、それは行かなくちゃね。さすがアフターケアも行き届いている。
私的には後半ぐだぐだ感がいなめなかったけど、大河ドラマ『江』を見ていてよかった! こんなところで役立つとは。少なくともあの時代の人間関係は、あれで学習できた。
お江の母、お市の方(信長の妹)の供養塔。ビジュアルは鈴木保奈美イメージ。
お江さんの墓。ビジュアルは上野樹里イメージ。
イメージはアレだけど(アレって?)、それなりの感慨をもって、お二人にお参りできたのだった。