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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

興聖寺

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山の中をバス移動。山の中を縫うように走り、谷川を見下ろし、それでも時たま「鯖寿司」の看板を見る。日常的な風景とあまりにかけ離れているので、もはやとんでもなく遠い場所に来たような気になる。

 「足利庭園」「興聖寺」の大きな看板のある駐車場でバスを降り、お寺に続く坂道をのぼる。やはりこの辺はひんやりと涼しく夏も遅く来るらしいので、咲き始めたばかりの初々しい紫陽花が、迎えてくれる。

美しく手入れの行き届いた境内は、まさに緑滴る風情。

 青紅葉が、プロペラのような赤い実を付けていた。

  嘉禎3年(1237年)、近江守護佐々木信綱が、宋から帰洛された曹洞宗開祖・道元禅師に京都で会い、承久の乱で戦死した一族の供養をお願いした。

 禅師は付近の山野の風景が伏見深草興聖寺に似ていると喜ばれ、寺の創建を奨められ、興聖寺とするよう勧められた。

 かつては広大な境内を持っていたので、足利将軍が危機に陥るたび、何度も興聖寺に身を寄せていたらしい。そのため「朽木幕府」とも呼ばれたとか。将軍の田舎暮らしの無聊を慰めるため、りっぱな庭園もつくってさしあげた。それが今に残る「旧秀隣寺庭園」こと「足利庭園」である。

 他にも織田信長の窮地を助けたり、文武両道に秀でた戦国大名細川幽斎の結婚の世話をしたりと歴史に関与されている。現在も興聖寺と細川家は深い親交があると、奥様より話をきく。

 「関西花の寺」(平成5年開創)25ヵ所霊場第14番札所。霊場の花として、境内「旧秀隣寺庭園」に470年以上の歴史をもつ藪椿(老椿)がある。

 興聖寺本堂内で、上品ながら気さくな奥様のお話で、お寺の来歴などを知る。

 まず正面のご本尊、釈迦如来坐像は、国指定の重要文化財平安時代の作。後一条天皇の皇子が幼くして亡くなり、天皇の叔父である藤原頼通が供養のために彫らせた三体の仏のうちの一体。作者名は不明だが、定朝作と伝わっている。

 こちらの仏様が正面間近で見られるよう、金襴のかかった高台に上がって、仏様と向かい合ってお参りください、と奥様が勧めてくださった。ありがたいことである。こんな至近距離でお参りできるお寺は、まずない。「花の寺」でのおもてなしはどこも親切で、ホスピタリティ豊かというウワサは本当らしい。

 私は仏様の前で正座できないので遠慮させていただいたが、下からじっくりとみせていただいた。仏像の前には、なぜか神社にあるような丸い鏡が置かれていた。白洲正子さん好みの、神仏習合の色濃い名残かもしれない。

 釈迦如来の左手には「縛り不動明王坐像」があった。

 そもそもは、北条高時の命で朽木時経が河内千早城を攻めた際に、楠正成の念持仏である不動明王が兵火にあわんとするを朽木へ持ち帰り、現在まで祀られている。戦中なので、むろん黙って持って来てしまったのだけど、すでに750年間、とくに返却要請もなくこちらにいらっしゃるので、もはや時効かと・・・と、奥様が笑いをとっていた。

 ちなみに「縛り」の渾名がつくのは、ここに入って来た泥棒を金縛りにしたので、「縛り不動」といわれているとか。戦火より救われたお不動様の恩返しかも。

 本堂でも外でもお寺の飼い猫が、みなさんに身体を摺り寄せて愛嬌を振りまいていた。いかにも愛情を一身にうけて育ったような、おおらかな猫だった。

 さて、次は庭園へ。