足利庭園
興聖寺の境内には、「旧秀隣寺庭園」がある。「興聖寺庭園」ではなくて、「秀隣寺」なのは、なぜに?
15世紀の頃、現在興聖寺があるこの場所には朽木氏の居館があった。ところが享禄元年(1528)、室町幕府12代将軍足利義晴が京都の兵乱を避け、朽木の地に身を寄せてきたため、朽木氏の居館は将軍御所「岩神館」となる。
(岩神とは、当時の地名)
その岩神館の館内に、京都銀閣寺の庭園を模した池泉観賞式庭園が作庭された。鑑賞のためだけでなく、将軍の公的な権威を示すための儀礼の場に不可欠な舞台装置として造られた庭ともいわれている。
時代は移り江戸時代のはじめ岩神館の跡地に、朽木宣綱が正室の菩提を弔うために建立した寺院が「秀隣寺」。そうしてこの庭は、「秀隣寺の庭園」になった。さらに江戸時代中期、安曇川対岸の上柏村にあった「興聖寺」が、「秀隣寺」の横に移ってきた。
しかしその後、両寺は幾度かの火災に遭い、秀隣寺は朽木の野尻に移りました。現在、庭園は興聖寺の境内にあるが、名前は「旧秀隣寺庭園」として残っている。
「旧秀隣寺庭園」は、別名「足利庭園」とも呼ばれ、こちらの方がわかりやすい。
この庭園は、室町幕府の政治的な有力者であり、かつ風流人としても名高い管領の細川高国が作庭したとされている。彼が作庭したとされる三重県の「名勝北畠氏館跡庭園」と類似しているそう。越前一乗谷の「朝倉氏庭園」や「近江京極氏庭園」と並ぶ、数少ない中世の貴重な名勝庭園である。
庭園は、安曇川が形成した段丘の縁にあり、安曇川の清流、そしてその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景としている。池泉鑑賞式の庭園で、左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水は、池に注いでいる。
曲水で造り上げた池泉には、石組みの亀島、鶴島を浮かべ、中央付近には見事な自然石の石橋が架かっている。随所に豪快な石組を配する、全国屈指の武家の庭だ。
近年では昭和の高名な作庭家、重森三玲氏が、この庭園に惚れ込み、「飽きがこない」と年に1度は見えて、お庭に佇まれていたとか。
むろん白洲正子さんも来られていて、近所の子どもの遊び場になっているのがいい、とおっしゃっていたとかいなかったとか。