以前の「紙魚子の小部屋 パート2」はこちらhttp://blog.ap.teacup.com/tanukitei/から、 その前の「紙魚子の小部屋」はこちらhttp://ivory.ap.teacup.com/tanukitei/から。

紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

御土居にて

以前の記事「紙魚子の小部屋」は下のリンク集から読めます。
 「いいとも」が終わって行動範囲の制限がなくなったタモリさんが、NHKの『ブラタモリ』で京都に見えたときに訪れたひとつが「御土居」だった。高低差が大好物のタモリさんは、いたく大喜びされていたが、そもそも御土居って?  御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁とのこと。  つまり敵から都を守る防塁であり、洪水からまちを守る堤防の役割を持つ「土塁」のことだ。 (緑字は京都市の「京都市情報館」HPより引用)  東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれた。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口となった。  御土居の七口は、長坂口、鞍馬口、大原口、粟田口、伏見口、鳥羽口、丹波口などの地名となって、今に残っている。  しかし天下太平の世が続くと、防塁としての役目がなくなり、洛中が洛外へと広がるにつれて、取り壊されて行ったらしい。  それでも残った御土居は、室戸台風時に鴨川の水を止めてくれたりもしている。  驚くべきは秀吉は御土居を2ヶ月から4ヶ月の短期間工事で完成させたらしい、ということ。  さて『ブラタモリ』同様、特別にフェンスの鍵を開けてもらい、いざ御土居のなかへ!   古代のまじないめいた石組みがあるが、残念ながら? これは昭和の初めに作られたもの。  あそこから降りてきた↑    ススキが風に揺れていた。  ここから一番近い切り口は、長坂口。このあたりは昔から木材の流通拠点なので、往来が激しい。  ここで一応解散となる。小嶋先生は、ヘヴィで草深いデンジャラスな御土居にもオプションとして自由参加で引率してくださるそうだが、おしとやかな私たちは、次なる別の目的地へ行く事にする。  御土居の真正面にある、きさくなお饅頭屋さん「光悦堂」にて「御土居餅」をお買い上げするのだ。  御土居餅も『ブラタモリ』ロケのとき、タモリさんが食べたらしい。  私は御土居餅以外にも、黒わらび餅と梅ゼリーを購入。すべてが美味。  参加者が大挙して押し寄せたため、ときならぬ大繁盛となった家族経営らしき「光悦堂」さんは、大忙しで大パニック!だった。