石道寺
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石道寺は奈良時代の開基で、平安初期、最長の中興と伝えられている。当初は天台修練の道場として栄えたが、現在は無住で観音堂のみが残る。
もとは山間部にあった真言寺院だったが、仏様を世話できるよう、大正3年に現在の麓の里へと、村人たちが観音堂を移した。
無住なので、村人が交代でお世話をされている。観音堂に入ると、カセットテープのボタンが押され、説明が流れる。村人の方は複数おられたが、「すみません、わたしら素人ですので、難しい質問には答えられません」と事前にフェイントをかけられる(笑)
本尊の十一面観音さまは、ケヤキの一木造りで、平安中期の作。唇の彩色が鮮やかに残っていて、荘厳というより身近なおねえさんといった風情だ。金色の流水のような光背も面白い。
村の方が、「もっと前の近い所でご覧ください」と、勧めてくださる。そして、こんなことはめったにないが、村の方が懐中電灯を貸してくださった。「これを当てると、よく見えますよ」と。おかげで彩色の具合や表情が、はっきりと見て取れた。大助かりである。皆さん、大変よろこんでおられた。
井上靖の「星と祭」の中では、「村の娘のよう」と書かれているらしい(読んでなくてごめんなさい!)
両側には四天王のうちのふたりの天部、持国天と多聞天がいらっしゃる。鎌倉時代の作。四天王のベルトにあたる部分には、鬼のような顔がついている。「これはなんでしょうね?」と不思議に思った方、続出。
帰宅後調べてみたら、「獅嚙(ししがみ)」というものだった。文字通り獅子が(綱/帯)を噛んでいるデザインだ。関西に多い図柄らしく、魔除けになるらしい。また「獅嚙文」という正倉院裂の代表的な文様もあるそうだ。正倉院ということは、奈良時代!? そんないにしえより受け継がれている日本の伝統的な文様なのか〜!?
素朴な仏様とあたたかなおもてなしにほっこりしつつ、石道寺を後にする。次はちょっと歩くので、足に自信のない方はバス移動のバス組へ。私はがんばって徒歩組に参入してみた。「とほほ組」にならないよう、こころして。