相国寺 その1
相国寺総門より入る。
相国寺は、臨済宗相国寺派大本山の寺である。正式名称を萬年山相國承天禅寺という。
本尊は釈迦如来、開基は足利義満、開山は夢窓疎石。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。(以上、ウィキペディアより)
門をくぐる前にインフォメーション↓
若冲は、世俗をすてて禅宗に帰依し、相国寺の住持大典(だいてん)和尚と深い交遊関係を結んでいた。そのため彼は、相国寺に「動植綵絵(サイエ)」30幅(のち宮内庁に献上)と『釈迦三尊図』3幅対を寄進し、鹿苑寺大書院の障壁画を手掛けていた。『釈迦三尊図』は、『動植綵絵』とともに毎年相国寺で参詣者に公開され、有名になった。
相国寺承天閣美術館で、おりしも「伊藤若冲展」が開催中だ。なんと12月4日までという長期展示。ただし今回の展示では、『動植綵絵』はコロタイプ印刷によるレプリカなのでご了承ください。
はい、蓮池を見る前に、小嶋先生の相国寺レクチャー。
相国寺の山外塔頭に、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺があるので、「相国寺は金閣、銀閣の親分」という判りやすい説明をされていた。もちろん相国寺と伊藤若冲との関わりについても解説される。
また、かつては108メートルもある七重塔があったらしい。東寺の2倍の高さらしい。残念ながら塔は失われてしまったが、現在でも東門前には「塔之段」という町名が残っており、当時を偲ぶことが出来る。
広い蓮池は、放生池。池に架かる石橋は「天界橋」という。
「天界」とは、寺と禁裏御所との中間に境界線の役目をはたしているところから名づけられた。
天文二十年(1551)に相国寺が焼亡した天文の乱はこの橋をはさんで始まった。当時の旧材のまま残っている貴重なもの。さすがに石の寿命は長い。
今年の蓮花は、例年に比べるとイマイチなようだが、それでも丹精された蓮を愛でる事ができた。
応仁の乱では、この池中は、死屍累々だったといわれている。蓮は弔いの花たちなのかも。
仏殿跡。天文20年(1551)の石橋の乱で焼け落ちて以来、再建されていない。今や礎石だけが残っている。
まさに兵どもが夢の跡。