明王院本堂にて説明をきく。
中世から近世にかけて、葛川(=明王院)参籠を行った者は参籠札という卒塔婆形の木札を奉納することが習わしで、元久元年(1204年)銘のものを最古として、約500枚の参籠札が残されている。それらの中には足利義満や足利義尚、日野富子のような歴史上の著名人のものも含まれ、葛川参籠が広い階層によって行われたことがわかる。
現在、鎌倉時代から江戸時代に至る501枚の参籠札が残っている。これらは重要文化財だ。このうち最古のものは元久元年(1204)の銘がある「権大僧都成円」ら7名の奉納したもので、高さ391cmの巨大なものであるそうだ。
(以上、ウィキペディアより引用)
現在もひきつづき、回峰行者の参籠札がおさめられているので、平成の日付↓
本堂には中央に千手観音、左(向かって右)に毘沙門天、右(向かって左)に不動明王を安置する。でもこれは前立てでいわゆるレプリカ。本物の仏像は秘仏なので、厨子の中。
霊木の桂の木で相応和尚は3体の仏像を作り、一つは近江八幡の伊崎寺、もうひとつは比叡山に安置されているとか。
床をみればボコボコしている。これは「太鼓まわし」のとき、太鼓の皮を留めている丸い金具が当たった衝撃でへこんだものだとか。
7月18日の夜10時に、ここで行われる一大行事が「太鼓まわし」と呼ばれるもの。祭に使うような大きな太鼓をナナメに支えた上に、行者さんが乗り、そこから飛び降りるというもの。
ただでさえアブナイのに、灯りのない暗闇でのダイブなので、行の一つとはいえ相当カラダを張った行事だ。いやいや、もしかしたら死ぬかもしれないという回峰行をしようというくらいだから、ある意味、命がけの意志を試されているのか?
説明をしてくださった氏子の方は、「(なにしろお酒も入ってるし)昔は流血沙汰のケンカもあって・・・いまはすっかりおとなしくなってしまい、たよりないくらい」みたいなことをおっしゃっていた。
ところで、回峰行を達成して阿闍梨になったお坊さんは、僧侶としての位が高いかというと、そうではないらしい。
氏子の方いはく「お坊さんの世界は、年功序列です」。
そういえば、ブッダが亡くなる前に弟子への遺言として、「先に僧になった年長者を敬いなさい」と言ったという話を最近知ったばかりだ。実力主義になると下克上がおこり、まるで戦国時代のように、組織は必ず紛糾し解体してしまうから、という理由によるらしい。ブッダの遺言が仏教界で生き続けていることも凄いかも。
↑氏子さんのおうちの前には、三の滝の水が引かれ、金魚や鯉が泳いでいた。
ところで、相応和尚を三の滝まで案内した浄喜・浄満の末裔とされる葛野(くずの)常喜家・葛野常満家は、現在も信徒総代として門前の集落に存在している。
四季折々のお料理が楽しめるらしい「比良山荘」。
山菜や鮎料理、マツタケや熊鍋など春夏秋冬の味のコンプリートを目指すお客さんもいるらしい。京都からタクシーでみえるというツワモノたちの、夢のアジトだったりもする。
旬のものだし、水がきれいだから、お料理も美味しいのだろうなあ。