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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

待つこと。

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 鷲田先生の話は、こんなかんじだ。

 たとえば農業など第1次産業は、「待つこと」自体が仕事だ。雨が降るのを、太陽が降り注ぐのを、実りの秋が来るのを、待つことで収穫までたどり着ける。もっとも最近では養殖や養鶏など、工場のようになっている部分もある。

 第1次産業すらこうなのだから、他の産業は言うに及ばず。低コスト、大量生産、効率的、スピーディーであることを奨励される。

 「待たない社会」の最たる者は、管理社会、なかんずく「成果主義」や「評価制度」で、これは単純なルーティンワークなら改善を重ね向上していくけれど、突出した発明や発見や芸術については、確実に取りこぼしてしまうだろう。評価する側が、評価できるものではない「へんてこ」で「アウトサイダー」なものだからだ。クリエイティブな仕事というのは、常識の枠外にあるからである。

 鷲田先生がおっしゃるには、昔、全国津々浦々の学校に必ず二宮金次郎の像があったのは、仕事をしながら学問に励む時間をムダにしない効率的な生活を褒めたたえていたからだとか。

 ところが効率を追求しムダを排除すると、臨界点まできたとき生産が下降を描いていくという。労働者を取り替えのきく部品としかみなさない、人間個人を大事にしない会社は、働き手の労働意欲の低下を招き、「がんばろう」という気持ちを萎えさせるのだ。

 話は変わって、阪神大震災のときに一番に現地に駆けつけてボランティアをしたのは、暴走族のライダーたちだったそう。かれらは「いいことをしよう」なんていう気持ちからではなく、他者が切実に助けを求める声に、条件反射のように反応したのだ。そういう感応力を彼らは持っていたのである。という話も面白かった。たしかに、ある種のヤンキーはアツくてやさしい。

 それから強制収容所で生き延びた人は、希望を持っていたひとではなく、「自分を待っていてくれる人がいるひと」たちだった、という話も興味深かった。

 そういえば、水木しげる御大も、激戦区で生き延びられたのは、両親の幻の声を聞いたからだったっけ(ドラマ『ゲゲゲの女房』にて)。

 翻って自分を顧みてみる。待つことができない頃、私の一日はとても短かかった。息もつけないくらいだった。久しぶりに出会った人に「もう仕事を辞めた」というと、「ええ〜!もったいない〜!!」と言われるけれど、私は逆に人生得したと思っている。もちろん経済的にはキュウキュウだけど、それはそれでスリルとサスペンスで満ちているので、面白いといえなくもない。やるべきことも、山積みなので、退屈ということもないし。

 私の思いは先生の話とはたぶん違うだろうけれど、待つことが可能になってやっとしみじみ「生きている」ことを実感できるようになったのかもしれない。待つって、わるくない。