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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

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離宮八幡宮

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妙喜庵から見下ろす場所に、次なるポイント「離宮八幡宮」がある。

 まずは本殿にお参りをしてから、社務所にて宮司さんと林先生のお話を聞く。そのあと、神社に伝わる歴史的に貴重な文書を拝見する。という流れだ。

 由緒をたどれば「離宮八幡宮」は、平安時代のはじめ、国家鎮護のため九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ御遷座したところから始まっている。貞観元年(859)国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」(山崎)が建立された。

 「石清水八幡宮」という名は、八幡神を奉じて帰京した行教が、この地の夜の山(神降山)に霊光を見、不思議に思いその地を掘ると、岩間に清水が湧き出したことに由来する。そして、ここにご神体を鎮座し、社を創建されたのだ。京都の八幡市にある男山の「石清水八幡宮」は、分祀されたものらしい。

 しかしここは、嵯峨天皇離宮である「河陽宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称される。

 もともと山崎の地は、燈明用油として奉納されていた荏胡麻油の搾油が盛んだった。しかも「長木」という効率的な搾油器具を発明し、飛躍的に出来高が伸びた。室町時代に入ると「油座」として、離宮八幡宮は油の専売特許を持つようになり、巨万の富を集め絶頂期に入る。一時は「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構え、栄華を極めた。

 しかし平家の時代から「奢れる者は久しからず」ともいう。

 陰りが見え始めたのが、織田信長の「楽市楽座」政策で、モノが自由に売買されるようになってから。荏胡麻油の独占ができなくなったところへ菜種油が大量生産され、これに市場を奪われてしまった。

 また幕末の「禁門の変蛤御門の変)」でも、戦に巻き込まれて建物は焼失し、すでに廃れていたのだ。上の写真は神社の礎石だが、「禁門の変」の戦で焼けて、もろくなっているそうだ。

 「離宮八幡宮」は、明治9年に国に召し上げられた広大な神領にJR(国鉄)が通ってしまったので、当然駅近。元・神領だもんね。

 それでも明治12年に崇敬者の寄進により社殿が再興、昭和4年(1929)に改築されて今日に至る。

 

 というような話を、宮司さんよりしていただく。「私の持ち時間は5分ということですが」というところから始まったが、もちろん5分で済む訳は無い(笑)

 荏胡麻の搾油器「長木」と、それ以前の搾油器の「木製模型」を使っての搾油方法なども詳細にわたって説明してくださった。

 そのうえ、「いまや国家安泰など一国だけの平和を望んでも意味がなく、世界の国々すべてが平和にならなければ! そして人間にとって大切なものとは・・・」と宗教的信念などもアツく語られていた。参加者はみなさんオトナなので、遮る人もいない。ひととおり語り終えられたあと、やっと林先生にバトンタッチして退場される。