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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

新熊野神社

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 先日のKちゃんのクラス懇談会にいったついでに、新熊野(いまくまの)神社で参拝する。大河ドラマ平清盛』のメインキャストが関わる神社だ。  熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇による創建だ。  後白河法王は退位後も院政を敷き、現在三十三間堂の東側にある法住寺に住まわれた。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建される。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子だ。  法皇は一生のうちに34回熊野に参詣したが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことだった。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが新熊野神社だ。「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっている。  その後350年間、京の熊野信仰の中心地として繁栄を極めたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまった。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王後水尾上皇の皇子)によって修復されたもの。  熊野神社八咫烏が御神鳥なので、ここも当然、三本足のカラスが至る所にデザインされている。社殿の暖簾(!?)の八咫烏がくわえているのは梛(なぎ)の枝。  新熊野神社はお腹の病にご利益があるということで、ここの健康長寿のお守りはお腹にヘルプが欲しい方が求められるとか。  そして新熊野神社は、なんと能楽発祥の地でもある。  能楽の大成者である世阿弥が3代将軍、足利義満と出会った場所なのだ。義満は美少年だった世阿弥の絶大なるパトロンになり、そのおかげで世阿弥は猿楽を能楽に高めることができた。というわけで、能面をバックに少年と高貴なお方との出会いをシルエットで描いたお守りもあり、当然ご利益は「芸能上達」と思いきや。  えんむすび!?  いや、能面だけのお守りもあって、それはたしかに「芸能上達」だったが、それとは別に、二人の出会いを描いたお守りのご利益が「えんむすび」。ボーイ・ミーツ・ボーイのシルエットで「えんむすび」。・・・確かあの二人は男・・・いやいや、あまり考えない方が。現在、大河ドラマ平清盛』で、まもなく悲劇的な最期を遂げる予定の腐女子ツボ押さえまくりキャラ、藤原頼長で手一杯であろう人たちには秘密にしておこう。  入口鳥居の横手には、巨大なクスノキがあり、ご神体になっている。  吹き抜けて行く皐月の風にざわめいて、ひんやりさわやかな樹下だった。