幻の懐かしい場所
子どもの頃、近江八幡市のはずれにある佐波江のお寺にタクシーで行き、長期休暇のときには必ず何泊かした。路線バスも通らない田舎のはずれ、びわ湖のほとりである。母の実家なのだ。とても仲のよかった年下のいとこがいたので、一緒に遊んだ。
表の縁側を降りると、二人乗りの白いブランコがあった。いとこの家は、当時珍しい共働き家庭だったし、おばあちゃんは戦争未亡人だったので、ともするとリッチ感を味わえる家庭だった。しかしブランコの隣にある別棟の風呂場は五右衛門風呂というミスマッチさもまた、素敵だった。
昼間には縁側で西瓜やトウモロコシを食べ、夜には花火をした。
裏手にも縁側があり、その近くにはゴミ捨て場(昔は山の中や空き地にふつうに放置されているゴミ捨て場があったが、悪臭もなかったし不思議に不潔な感じはしなかった。)と黄色い実をつけた夏みかんの木があった。松林をわたる風の音や波の音を聞きながらボンヤリと過ごし、そのまま畳の上で昼寝をした。思い出すだけでも、生涯に渡る至福の時間だ。
いとこたちとテレビを見て遊んで、浜辺に繰り出して浮き輪付きで泳ぐ。浜辺を端から端まで歩き、貝殻や石を拾う。なんて無為で楽しい夏休みだったことだろう。ゲームでステージをクリアしたり、得点を競ったり、アイテムを集めたり、宝物を見つけたりするより、はるかに無駄で無為な夏休みだった。
あれから40年も経っているのに、有意義な子ども時代のあれこれよりずっと心に残っているとは、どうしたわけだろう。いまも無駄で無為な時間をだらだらと過ごしてしまう事はよくあるけど、あんな幸福感はもはや感じる事はできない。なにもしていないことに罪悪感や焦りがつきまとっているからだ。
いまは彼方の時間にたゆたう無駄で無為な夏休みを思い出し、幸せな気持ちに浸るのがやっとなのである。
ほぼトトロに出てくる「さつきとメイの家」みたいだった。しかし、もうあの家は壊され、別の家になってしまったので、思い出のなかだけの、もはや幻の家だ。ときどき牛のように反芻しながら、味わいたくなる思い出である。