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紙魚子の小部屋 パート2 plus はてな版 (2009年9月〜)

平凡な主婦の日常と非日常なおでかけ記録、テレビやラジオや読書の感想文、家族のスクープなどを書いています。

紙魚子(しみこ)のおでかけのあれこれ、ユニークな家族、節操のない読書、テレビやラジオの感想、お買い物などを書いています。

ご一行様を待ちながら

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 で、太夫がお寺になぜ一体? 

 ここには複数の歴史が入り込んでいる。まずは、木曽義仲に焼き打ちされた法住寺合戦の舞台となり、身代わり不動明王は、合戦の焼き打ちの際には後白河上皇の身代わりとなったといわれている。

 時代は下り江戸時代。法住寺は当時妙法院門跡の院家であったことから,内蔵助が宮方を通じて情報を得ていた。また同志との連絡会合の場所とし、大願成就を御本尊身代り不動尊に祈願したと云う。法住寺付近から少し南の山を越えれば大石内蔵助が居を構えていた岩屋寺付近へと繋がり、内蔵助は島原の遊郭へと足を運ぶ道すがら、法住寺のお不動さんに祈願をしたそうだ。その縁で、寺には四十七士の木像が江戸時代の終わりころから明治にかけて奉納されている。

 島原の太夫大石内蔵助つながりだったらしい。12月14日には、義士会法要だってあり、そのときには餅を丸めるどころか、太夫の道中だってある。

 平安時代から江戸時代に続く、寺の歴史! いや、その間に親鸞上人の蕎麦喰い木像だってあるし。ついでにいえば、長谷川町子さんの菩提だってある。

前を歩く赤い着物の女の子は「禿(かむろ)」という。禿は「太夫の身の回りの世話をしながら、その世界のイロハを教えてもらう」童女のことをいうらしいが、さすがにそれは今はないだろう。こういう行事のときに、はんなりとした京女の女児が選ばれるのかもしれない。

 この三本歯の下駄で、斜面を登るのは難しかろう。菊川太夫さん、坂の前でしばし立ち止まり、気合いを入れてから「えい」と足を出しておられました。

 私たちは、甘酒の接待に舌鼓。あのどろっとしたのではなく、さらっとして麹がばらっと浮き沈みしている、丁度いい薄めの甘酒でなみなみと、しかも摺り降ろしたホンモノの生姜をたっぷりとのせてくださった。これがもう、美味しいったら! 

 門の菊の浮き彫りも素敵。さすが後白河さんの時代に法住寺殿といわれた御所だけのことはある。

 

 などといっているところへ、ご一行様、ご帰還! 

 おつかれさまでした! つぎは「餅つき」と「ぜんざいの接待」なのでしばらく出番は無いし、ゆっくりと休憩してくださいね。